実家父の月命日に御住職様から頂いた五月のご法話です。


仏法の鏡の前に立たないと 
自分が自分になれない

二階堂行邦さんの法語についての上本賀代子さんのお話です


「鏡」と聞くと、昔よく読んだギリシャ神話の怪物、メドゥーサを思い出します。

もともとは美しい乙女でしたが、ある出来事によって戦いの女神アテナの怒りをかい、恐ろしい姿に変えられてしまいます。それは、髪の部分が何十匹もの蛇となり、常に彼女の頭部でシュルシュルと舌を出しながらうごめいている怪物の姿です。
そして彼女が恐れられたのは、その姿だけではありません。彼女の目を見たものは、恐怖で体が硬直し石になってしまうのです。
そんな怪物メドゥーサを退治したのはペルセウスです。彼は青銅の盾を鏡のように磨き上げ、彼女にその盾をかざしたのです。
鏡の盾に映る自分の恐ろしい姿を見たメドウーサは「ぎゃー!」という断末魔の叫びをあげ、彼女自身も石になってしまったというお話です。

ギリシャ神話は登場人物(人物といっても、神や怪物になるわけですが)が限定されていて、どんな物語にも知っている人物が登場します。

お経でも同じ菩薩さまやお弟子さんたちが登場しますが、これらは私にとって物語を楽しむひとつのポイントであったりします。
さて、この法語「仏法の鏡の前に立たないと 自分が自分になれない」ですが、「仏法の鏡」とはどういうものでしょうか。
鏡は光の反射によって、自分の姿を映すものす。仏法の鏡ですから、それは仏さまの光によって私の内面が隅々まで照らし出されるということです。
ただ、それを覗き込んでしまったら私もまたメドゥーサのように自分の恐ろしい姿に「ぎゃー!」と叫んでしまうことになるでしょう。だから、鏡の前に立つことすら怖気づいている自分がいます。
⚫︎温暖化を止めなくては、と思いながら車に乗私。
⚫︎命をいただいている、といいながら食べ物を廃棄する私。
⚫︎難民の人たちを受け入れなくては、と考えても自宅の余った部屋を提供できない私。
⚫︎施設の母親が寂しいだろう、と思いながら面会に行かない私。
⚫︎生き方には様々な選択肢がある、といいながら自分の子どもにはそれを許さない私。

 隠しているつもりの恨みや妬みの心も仏法の鏡にはくっきりと映し出されるでしょう。とにかく私は自己中心で成り立っているはずです。そんな自分をありありと見つめるのは怖いのです。

親鸞聖人が本当ににすごいお方だと思った和讃を紹介したいと思います。最晩年に近い、88歳に書かれた「愚禿悲歎述懐和讃」の一首。

「悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮(こけ)の行とぞなづけたる」

「わたしは悪い本性を断ち切ることが未だできません。その心は蛇やさそりのように恐ろしいのです。良い行いをしているようでも、そこには必ず自分の見栄やおごりが含まれているので、それはにせものの行いというしかないでしょう」

と詠われています。赤裸々に吐露された宗祖のこの告白は、仏法の鏡の前に生涯立ち続けたお姿を想像させます。阿弥陀様はそんな衆生をこそ救ってくださるのに、鏡の前で目を開けることができない私は、まだまだ本当の自分に出遇えていないということになるのでしょう。だからこそ仏法の鏡の前に立てと、阿弥陀様はすすめてくださるのです。

上本賀代子(うえもとかよこ)1961年生まれ。大阪教区第20組安樂寺前坊守


この御法話を読みながら、少しホッとした自分がいました。
毎日お勤めされているご住職様でさえ、赤字で書かれた事を思っていらっしゃる。
私も常に心の中で迷っている事で、結局は自己中で自分の生活だけが大切なんです。
鏡の前で目を開けて、自分の醜い姿を見た後は…どうしたら良いのでしょうか。
自分の醜さを認めて、反省し、車を乗るのをやめ、難民を受け入れ、苦手な母に優しくし、無駄に食べず粗食でいたらいいのでしょうか?

私にはその答えはまだ出ません。
正信偈の意味を理解したならば、その答えは見えるのでしょうか…。

阿弥陀如来の教えに触れれば触れるほど、迷いは大きくなるような気がします。

またまだ始めたばかりの浄土真宗の勉強です。
こらからいろんな本を読んで、理解をしていきたいなって思いました。