今回の法語である。


『 浄土真宗風 “千の風になって”


   あなたのお墓の前で 泣いてもいいですね
   どこでもあなたはいますね 往ったきりじゃないですね
   仏様に 仏様になって
   いつも 私のそばで 見守って下さい


   春は花の香りで 私を和ませる
   夏はきらめく陽光(ひかり)で 元気を降り注ぐ
   秋は豊かな恵みで 皆を育む
   冬は厳しい風で 鍛えてくれる


   あなたの写真の前で 泣いてもいいですね
   どこでもあなたはいますね 亡くなってしまいましたが
   仏様に 仏様になって
   いつも 私のそばで 見守って下さい


   南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏唱え
   いつも あなたのことを 念じ続けています
   いつも 私のことを 見守って下さい    
          』  105枚


題して「 仏様になって 」。言わずと知れたあの「千の風になって」の替え歌である。


1年程前にこの歌を知っって以来、良い歌詞だなぁと思っていた。
しかし最近なんか違和感というか、仏教的ではないと感じる部分に気づいたのだ。
それは、「泣かないでください」 「死んでなんかいません」という歌詞である。


最近流行のスピリチュアルでは、「死んでも死なない、だから悲しむことはない」と言うのだろうが、
「喜んでよし、怒ってよし、哀んでよし、楽しんでよし」が浄土真宗である。
泣きたい時は泣けばよいし、笑いたい時は笑えばよい。怒りたい時は怒ってよいのだ。
「~ねばならない」に囚われて、素直になれない方が問題である。
だから仏教的には、死を受け入れてもらう為にどんどん感情を出してもらうのが、
本来あるべき姿であり、真の意味での癒しなのだ。


生き残った者にとって、愛する者が死んだらおしまいではやりきれないし、
何らかの形で生きていてほしいと思うものだ。
「千の風になって」も、亡くなった人が様々な形で私に働きかけているんだということを伝えている。


実際にも、人が死ぬことは、この世から全く消え去ることではない。
知人や親族に遺伝子や記憶という形で受け継がれていくのだ。
だから、死んだことを素直に受け入れることが、次に向かって歩くことに繋がっていくのだ。


「千の風になって」は、亡くなった人が遺族に残すメッセージ(一人称)である。
第三者や僧侶が遺族に向かって言う言葉ではない。
例えば、故人が遺族を慮って「葬式しなくていい」と思う気持ちと、
遺族の「やはりお葬式は出したい」と思う気持ちは、一見真逆である。
しかし、相反するものではなくお互いがお互いを大切に思う気持ちの表れである。


同様に、「千の風になって」は亡くなった側の台詞であるからこそ受け入れられるのであって、
他の者が遺族を慰めるつもりで言っても逆効果である。


だから今回、遺族側に立った二人称の歌詞と、第三者側に立った三人称の歌詞を考えてみたのだ。


□ 「慈悲の風になって」  ( 浄土真宗風 “千の風になって” 三人称(僧侶・第三者用)版 )


   あの方のお墓の前で 泣いてもいいですよ
   そこにもあの方はいますよ 還ってきていますよ
   慈悲の風に 智慧の光になって
   いつも あなたのそばで 見守っています


   朝は優しい響き声で あなたを目覚めさせる
   昼はきらめく日差しで 皆を応援する
   夜は月になって 優しく癒している
   夢の中では一緒に 語り 歌い 笑う


   あの方の写真の前で 泣いてもいいですよ
   そこにもあの方はいますよ 亡くなってしまいましたが
   慈悲の風に 智慧の光になって
   いつも あなたのそばで 見守っています


   あの方に 会いたくなったのなら
   いつでも 南無阿弥陀仏と 唱えて下さい
   いつも あなたのことを 見守っています