今回の法語である。


『  末期患者には、

  激励は酷で、善意は悲しい、

  説法も言葉もいらない。

  きれいな青空のような瞳をした、

  すきとおった風のような人が、

  側にいるだけでいい。

              青木新門  』 58枚




『 アメリカの精神科医キューブラー・ロス女史が、多くの臨床の経験から「末期患者が最も安心するのは、何らかの方法で死を克服した人が患者の側にいることである」と言っている。
  ということになれば、死の不安におののく末期患者に安心を与えることができるのは、その患者より死に近いところに立たない限り、役に立たないということになる。たとえ善意のやさしい言葉であっても、末期患者にはかえって負担となる場合が多い。
  要するに、菩薩に近い人が側にいれば一番いいのである。
  人は、自分と同じ体験をし、自分より少し前へ進んだ人が最も頼りとなる。
  長野善光寺の御戒壇(本堂地下にある真っ暗な通路)を進むとき、手を伸ばせば届く程度に前を行く人が最も頼りとなる。その人が前にいるだけで、安心して進める。
  仏は前に進み過ぎている。親鸞には、少し前を行くよき(法然)がいた。
  末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい、説法も言葉もいらない。
  きれいな青空のような瞳をした、すきとおった風のような人が、側にいるだけでいい。(青木新門著『納棺夫日記』 136-137頁 文春文庫)  』



今週、自坊にて忌明け・納骨法要が3件ある。11月下旬に立て続けに亡くなられた檀家さんだが、しばらく体調を崩されていてご家族も覚悟はされていた。私も何となくは感じていたが、それでも仲良くして頂いた方ばっかりなので葬儀中に涙が止まらなかった。僧侶が葬儀中に泣きながら読経するのはイエローカードだろうけど、でもどうしようもなかった。

今まで涙が出るのは悲しいからだと思っていたが、涙と悲しみは同時なんだね。いきなりスイッチが入って、それまで何とも無かったのにいきなり涙が出て突然悲しくなる。全く不思議な気分だった。じわじわと悲しくなるんじゃないのだ。

僧侶になって10年超、仲の良い檀家さんも増えてきたが、今後このようなケースが多発しそうで心配だ。“泣き”が評判になったらそれはそれで面白いが、反面泣かないケースもあれば逆にその檀家さんに申し訳なくなってしまうから、困ったものである。

実家の両親の葬儀も、妻の両親の葬儀も、私が導師をするつもりだ(既に頼まれている)が、すっかり自信を無くしてしまった。仲が良かったとはいえ他人さんでこうなのだから、親なら全く読経できなくなるはずだろう。読経出来たら出来たで薄情者という事になってしまうが...。