今回の法語である。



『  世界でいちばん有能な先生によってよりも、



   分別のある平凡な父親によってこそ、



   子どもはりっぱに教育される。



                 「エミール」 ルソー  』  48枚



 「橋のない川」を著した作家の住井すゑさんは、「子育て」という言葉を嫌った。子どもの管理に通じる意識を、そこに見たからである。
 「子どもこそいい迷惑。彼等(かれら)にとって、
親という名の権力の下請人(したうけにん)によって管理される毎日なんて、たのしかろうはずがない」と20余年前の随筆に書いている。もう亡くなったけれど、政府の教育再生会議が準備してきた
「子育て指南」の緊急提言を知ったら、何を思っただろう。
 「子守歌を歌い、おっぱいを与える」「食事中はテレビをつけない」「早寝、早起き、朝ご飯を習慣づける」「うそをつかないなどの徳目を教える」……。驚くような中身ではないが、国の提言となれば話は違う。それはたちまち価値観を押しつけ、下請け人たることを親に求める言葉になってしまう。
 さすがに国民の反発を案じる声が政府内からも出た。「待った」がかかったのは良識ある成り行きだろう。「高みにいて人を見下したような訓示とかは、あまり適当じゃない」。伊吹文科相の見解に、我が意を得たりの人は多いのではないか。
 自由主義教育を説いたフランスの啓蒙(けいもう)思想家ルソーに、味わい深い一言がある。「世界でいちばん有能な先生によってよりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子どもはりっぱに教育される」(「エミール」岩波文庫)。
 分別ある父母を望むのは、教育現場をはじめ、多くに共通した願いだ。そうした願いを、薄っぺらな説教の羅列で果たせると考えているなら、再生会議は能天気に過ぎるだろう。       (朝日新聞2007/05/12(土)天声人語より)  』





「ゆとり教育」も「つめこみ教育」も子どもをいかに伸ばすかという発想は同じだが、

これがそもそもの間違いで、人が人を伸ばす事など出来ないのではないか。

完成された人間である(と思い込んでいる)大人の自分が、

未完成の人間である子どもを自分のレベルにまで引き上げようという考えは、

傲慢以外の何物でもない。

確かに大人は知識と経験においては子どもより一日の長があるが、

人間としての未熟さという点では大差無いでしょう。



学べば学ぶほど、世界の広さ・自然の深さ・自分の未熟さを思い知らされる。

我々大人にできることは、子どもが伸びる適切な環境と材料を提供して、

ただ見守る事だけである。そこで子ども自ら習得した知識と経験は、

より良く生きていく為に必要な智慧(生命力)となるのである。



子どもは放っておくと怠けるから無理強いしなければと考え勝ちだか、

強要される事を嫌うのは大人も子どもも変わらないはず。

だから環境と材料だけを提供して、

冷たい目で「見張る」のではなく、

温かい目でじっと「見守って信じて待つ」姿勢が、

分別ある大人の役目である。


親の意欲と子供の意欲との相関関係調べた研究によると、

親の意欲が「普通」程度の時に子供の意欲は最も高くなり、

「普通」よりも高くなるにつれて子供の意欲は低くなっていくそうだ。

親の気合は、やはり空回りしていたんだね。