今回の法語である。


 『 
僕は誰かのために
   やってきた訳ではない。
   自分のため。
   みんなそうでしょう?
           矢沢永吉
  』


こういった彼の言動が多くの人に支持されるのは、
経験に裏打ちされ体験に基づいた説得力があるからだ。
横領被害に遭った35億円を7年で完済したからこそ、
「人間は打たれ弱いが、それだけではだめ。しばらくしたらムクッと起きてこい!」
と言えるのだろう。
でも自分のためにやっている事が結果的に他の人のためになる、
っていうのは理想的なことである。


ジクムント・フロイトは精神活動を支配するダイナミズムとして「快感原則(本能的な欲求を充足させようとして人は行動する)」を唱えた。事実、大脳生理学上でも脳というのは基本的に快楽主義者だそうだ。確かに人は不快を避け、心地良さを求めて行動を起こし、それゆえに進化を続けてきた。食欲も性欲も名誉欲も金銭欲も創造欲も、人類を駆り立て励まし続けてきたのである。

聖なる者も卑なる者も皆、不快を避け快感を追い求め続ける。違いは「何に快感を感じ、何に不快を感じるか」だけである。快楽をもたらすものが人によって違うだけで、それが買い物依存症だったり薬物依存症だったりしても、脳にはこれがノーマルでこっちがアブノーマルという判断はできないらしい。数学者にとって解けない数式を何年も考えているのが快感だったり、マザー・テレサのように人に尽くすのが快感という人もいるのは、当然なのだ。私もできれば、少しはマシなものに心地良さを味わえる人間でありたい。



仏教には、『忘己利他(もうこりた)』…「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」という言葉がある。自分のことは後にしてまず人に喜んでいただくことをするのは仏様の行いで、そこに幸せがあるのだという言葉で、つまり我欲が先に立つような生活からは幸せは生まれないのだという教えである。これも人間の欲求が良からぬ方向に行かない様に戒める為の言葉である。


でも個人的には、『忘己利他』は偽善者ぽくて好きではない(人の為と書いて“偽”ってよくできた漢字だ)。それよりも他の仏教語である『自利利他円満(じりりたえんまん)』の方がすんなり理解できる。自利とは、自らを真に利益するもの。利他とは、他の人を真に利益するもの。それが同時に満たされた状態が円満である。真の利益とは苦を滅し楽を得ることで、仏教で言う苦は束縛であり楽とは自在である。自らの「いのち」を100%生きることを自在と言い、自分も他の人も「いのち」を100%生きられるような状態が実現して、真の円満なのだ。


自分の利益(自利)の目標を立てて生きているというのが、誰しも人間の目指すところだけれども、そればかりではない。どこか人間には他の人の利益(利他)をこの手で支えると言う喜びをどこかで持っておる。その仏教で言うところの『自利利他円満』というのは、二つ重ねて自利利他円満かと言うとそうではない。利他ということによって自利が全うできる。自利を全うしようと思えば利他を忘れることができない。自利と利他とは一つの人間の生き方のなかにある表裏。そういう関係を『自利利他円満』という言葉で示している。

世の為、人の為に精進努力の生活に徹すること、それがそのまま自利すなわち本当の自分の喜びであり幸福なのだ。そのような心境に立ち至り、かかる本物の人物となって社会と大衆に奉仕することができれば、人は心からの生き甲斐を感じるはずである。


 先週の法語用紙のお持ち帰り数は45枚だった。