今回の法語である。


『 散る時が
  浮かぶときなり
  蓮の華
      』


 私達の様々ないのちに対する物差し・価値観、そういったものが実は死を問うことによって全部崩れてくる。死を見つめることによって自らの価値観が砕かれる。そして砕かれた果てに出遇える世界が他力の世界なのだ。
 自力で頑張って自分で生きるのだ、自分が、自分が....、自分でどうにかなると思っている。その力が尽きた時に手が思わず離れる。しかし、そっくりそのままそれが大きな手の中に浮かんでいる。他力に受け止められている。如来の手に受け止められているという実感、そのあたりを明治の先達の清沢満之師は、「絶対無限の妙用(みょうゆう)に乗托して任運に法爾にこの境遇に落在せり。」とおっしゃっている。「落在」とは、まさしく落ちたままに、そのまま大きな手の中に生かされていたということに気づける世界なのである。その大きな世界というのが、我々の囚われを離れた世界、自然の世界なのである。清沢師は「真正(しんしょう)の独立」と題する文の中で、「生死は固(もと)よりこれ自然(じねん)の法。我が精神は快くこの自然の法に従いて満足するという決着に至るのである。」と述べている。自然に乗托した時に絶対の満足に至るということである。
 天親菩薩の『浄土論』の中に、「仏の本願力を観そなわすに、遇うてむなしく過ぐるものなし。」という言葉がある。「遇(もうあ)う」とはたまたま遇うということで、遇いがたくして遇って、そして虚しく過ぐる者なし、本願に出遇って虚しく過ぐるものなし。親鸞聖人も『高僧和讃』の中で、「本願力にあいぬれば、むなしくすぐるひとぞなき。功徳の宝海みちみちて、煩悩の濁水(じょくしい)へだてなし。」と詠んでいる。
 その大きな手の中、他力に気づいた時、本願力に気づいた時に虚しさがそっくりそのまま晴れて、これで良しという満足があるのだ。その満足ということを親鸞聖人は、「このみに満足す。」という言葉でおっしゃていたことが、『尊号真像銘文』に載っている。この身に満足するということは、何かと比較してそして満足だ不満だという話ではなく、この身だから主体的に自らの上に満足するのだ。生きるも良し、死ぬるも良し、自然に乗托した時、そこで一切を良しと、絶対満足という形でそれを受け止めていく世界なのだ。