昨日の続きも紹介しよう。


 「あなたはあなたを生きればいいんだ」というふうに言うことがある。この場合の「あなたを生きればいい」という言葉は、前に書いた「~を生きる」という言い方で、生活の場所・場面・時間を示そうということだから、「あなたはいつ、どこで、なぜ、どのように生きているのか」、すなわち生そのものを表そうとしているということになる。だから、
「あなたのままで生きればいい」
「あなたとして生きればいい」
「あなたという場で生きればいい」etc
ということを意味しているわけだ。
 同じように考えると、「今、いのちが私を生きている」という文章は、
「いのちが私として生きている」
「いのちが私なんだ」
「いのちが私となって生きている」
「いのちが今、ここで生きている」
「いのちが私という場で生きている」etc
というようないろんな意味を含んでいることと理解したらどうだろうか。もっとも、これでは「いのち」が主語、「いのちが生きている」ということだから、いろいろ問題はあるのだが。
 というわけで、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマが何を言いたいかというと、
「(阿弥陀)のいのちに生かされて、あなたは今、ここを生きている」ということを呼びかけているんだろうと推測する。
 結論としては、このテーマ、日本語として不自然だから、どういうふうにでも解釈できるという利点があるということです。