東本願寺の御遠忌テーマに関して、おもしろい反論があったので紹介する。


 親鸞聖人七百五十回忌ご遠忌のテーマが「今、いのちがあなたを生きている」に決まったそうだ。私の嫌いな「いのち」という言葉が使われていることにまずムカツクが、そもそもこの文章、日本語になってない。どう考えてもおかしい。「いのちがあなたを生きている」というような文章を書いたら、国語の試験では×をもらうに違いない。本願寺の国語能力の低下を憂慮した。東本願寺のHPに「御遠忌テーマの願い」という文章があり、これまたわけのわからない言葉の羅列で、私はアホなのかと悩んでしまう。ひょっとすると、こういう意味不明のテーマにすることで、あれこれと考えてもらいたいという願いをこめた、ということなのかもしれない。(そんなこたないか)
 そこで暇人の私は考えました。善意に解釈すると、「私は無量寿のいのちを生きている」という言葉があるし、「あなたのいのちはあなたのものではない」ということと、「あなた一人の力で生きているのではない」ということを言いたいのかもしれない。しかしこれだとあまりにもありふれているように思う。もっと真意は深いところにあるのではなかろうか。
 「御遠忌テーマの願い」を読みますと、「いま私たちが御遠忌テーマを考えるとはその出遇いによって開かれた世界を語ることである。しかし、それは決して教団的な信仰表現の中で、つまり、教団内の人々にしかわからない宗派的な言葉で、親鸞聖人との出遇いを語ることではない。私たちの闇と、その闇を照らし出す光との呼応の関係を、誰もがわかる現実的な言葉、生活の言葉で語ることであろう。」とあります。全くその通りですね。テーマが「教団内の人々にしかわからない宗派的な言葉」であっては困るわけで、「誰もがわかる現実的な言葉、生活の言葉」であってほしいじゃないですか。教団内の人間としては、こういうことかもしれないとテーマの意味を理解する努力をしますが、多くの人にとっては、なんのこっちゃ、でオシマイですよ。テーマはちゃんとした日本語にしてほしいものです。