これは5/20に発表された、2011(平成23)年に東本願寺で勤められる親鸞聖人750回御遠忌法要のテーマだ。
 現代に生きる我々には、こういう発想は浮かんでこないのではないだろうか。よく「いのちを大切に」と言うが、一体「いのちを大切にする」とはどういうことを指すのだろうか。健康で長生きすることがいのちを大切にすることなら、若死にした人や病気の人はいのちを粗末にしたことになる。だから、健康で長生きした人は、いのちの器(身体)を大事にしたとはいえても、本当にいのちを大切にした(=いのちを生きた)とはいえないのではないだろうか。
 では、いのちを大切にするとはどういうことなのか。いのちを実体としてとらえる、つまり医学が進歩して臓器移植などがドンドン行われるようになると、この傾向(器としての生命観)がドンドン常識化されていくことになる。『できる・できない』『世間体が良い・悪い』『便利・不便』という尺度で、生きていることが評価されるようになってくる。生きていることも、比較する相対的な出来事になってしまうのだ。それなら代用品の世界でしか生きていけないことになる。「何となく空しい」という感情が起きてくるのは、自分が「器としてのいのち」しか知らないということの信号ともいえる。
 1つの『いのち(無量寿)』が、ある人は老人、ある人は若者、ある人は健康、ある人は病気として発露しているのだ。年を取ることも病気であることさえも、いのちが与えられているからこそ起こることなのだ。
 「器としてのいのち」を支えている『(無量寿としての)いのち』からの呼びかけこそが、このテーマから自分自身へのメッセージなのだ。人間として生きるとは、「あぁそうか、いのちが“わたし”として表現されていたのだった。それなのに、私の都合(思い)を何よりも確かなものとして疑わずにいたな。」という懺悔を通して初めて始まったといえるのだ。