12月10日、父親が、84歳で亡くなった。
今は、忌引休みで明日までお休み。
ちょっと、ココロが辛くて辛くて・・・
ここに書くことで、少しでもココロが休まれば、と思って・・・書こうかな。(長文です。)
介護生活が始まってから4年余りだった。
(介護が始まったキッカケは、割愛します。)
私は4人姉妹の3番目だけど、介護が始まってからは、鹿児島の姉(長女)と私で交互に実家に行ってたのよね。
他の2人が放棄状態だったから。
実家の市は、愛知県内でも介護に関してはかなり充実していて、一人暮らしの父親が家族が付きっきりでなくても過ごせるくらい。
1日に2回朝と夕方ヘルパーが来てくれ、お弁当屋さんも3食宅配、その都度安否確認してくれてた。
だから、鹿児島の姉と私と、交互で月に1回程度行くだけで良かった。
私は最初は、2〜3ヶ月に1度で良かったのよね。
同居で大変な方もいるのに申し訳ないですが・・・
それが、コロナで鹿児島の姉がこちらに来れなくなり、ここ2年近く、うちが毎月のように行かなくてはならなくなったのよね。
姉は今年の3月にようやく1回来れただけ。
フルタイムで働いてるわたしにとっては、月に1回だけでもしんどかったなぁ。
だって、旦那にお願いして車で往復で少なくても3時間かかるのだから。同じ県内なのにね。
行くたびに地元近所の喫茶店に行くのを父親は楽しみにしてて・・・
12月4日も、父親を喫茶店に連れて行って・・・
いつものように、モーニング。
いつものようにゆで卵食べて、パン食べて・・・
あー、やっぱりしんどいわ、書くの。
軽い認知症があるものの、さっきまで普通に喋ってた父親が・・・
喉にゆで卵やパンが詰まってしまったのよね。
みるみるうちに、意識なくなり、お客さんや店の人に助けてもらって救急車に乗り総合病院へ。
すぐに鹿児島の姉に☎
呼吸回復したけれど、脳の反応がなく、あまり長くないでしょう、と救急の若いイケメン先生。
その日の夜に鹿児島の姉がこっちに到着。
私と旦那はとりあえず自宅に戻って、翌日曜日に鹿児島の姉と実家で合流。
父親は危篤状態ではないため、いったん姉は鹿児島に戻った。
姉は、父親が一人暮らしなため以前から亡くなってからのこと、色々と段取りしてくれていて・・・
12月10日、私は仕事で6時〜仕事開始した直後に自宅から☎
病院から危篤の知らせが。
火曜日に、父親が数日、と職場には伝えてあったので仕事せずにすぐに帰ってきて、子どもたちに後のことはお願いして病院へ・・・
といってもやっぱり1時間以上かかったので、途中、📲に看護師さんから・・・
心臓のレートがゼロになりました、って😢
病院に着いてすぐに死亡宣告受けました。
姉は朝イチの飛行機に乗れると思ってたけど、コロナ落ち着いててみんな旅行してるんだって!だから飛行機満席で夜の最終便しかないって!
鹿児島↔名古屋の飛行機なんて普段から満席にはならないのにね。
たから新幹線で行くわ、って姉から☎。
その間にも姉は、葬儀屋さんに連絡、親族に連絡してくれたけれどやっぱり次女には連絡取れず、四女は体調悪いから来れないって!!
その間に私は、病院の手続きしたり、葬儀屋さんに書類をもらって書いたり・・・
私と旦那は朝すぐに飛び出してきたから、喪服とか、家のこととか何もしてなくて、1度自宅に戻り、そうくんの喪服を買いにイオンへ行ったり、晩御飯の用意して、また父親がいる葬儀会館へ。
姉と姉の旦那さんも同じくらいに会館に着いてた。
何とか、無事にその日にお通夜、翌日葬儀ができた
父親が大好きな喫茶店で意識がなくなり、病院で先生や看護師さんに見守られて死を迎えられたのは良かった。
姉も父親の兄妹も言ってた。
私もそう思う。
介護、もっと長くなると思ってたし。
わたし、父親のことあんまり好きではなかったのよね
お母さんっ子だったから。
でも、今でも思い出すと辛いんだよね。
さっきまで元気に食べて喋ってた人が・・・一瞬だったけど、苦しかっただろうなぁ😢
そして、葬儀に娘4人が揃わなかったこと。
そして何より、実家の売却が決まっていて、実家がなくなってしまうこと・・・
築50年以上の実家、家はボロボロだし住む人もいないからそうするしかないんだけれど😢
実家のお墓も墓じまいするし。
28年前に亡くなった母親、そして父親のお骨と位牌は、もうすでに鹿児島にあるし。
まだ、実家に数回用事があって行くのだけれど・・・
これだけ書いたら、少しは気持ちが楽になった気がするなぁ。
きっと、時が解決してくれるよね
家事はゆっくり再開しよう・・・明後日から仕事だからね