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廃棄される運命から生まれ変わった航空母艦赤城が全長260mの堂々たる体躯を見せて竣工したのは昭和2年3月25日。
昭和3年3月31日には加賀も竣工し、二艦は主力戦艦が集結する第一艦隊へ配備され、決戦の際の貴重な補助戦力として訓練や航空機の運用試験に明け暮れる日々を送りました。
(艦載機の能力ゆえに空母の打撃力は未だ不十分だった)。
上の写真を見て分かるように竣工時の赤城と加賀は前述した英空母フューリアスが第一次改装で二段式飛行甲板を設けたのを参考に三段式飛行甲板を有していました。
しかし実際には中段の甲板前端には艦橋があり、更にその両脇には20.0cm連装砲塔が備え付けられていたので実質的に機能するのは二段式に過ぎず、下段の甲板は奥が格納庫だったので滑走距離が短いという欠点がありました。
空母に重巡洋艦の主砲である20cm砲を装備したのは、当時の飛行機の性能では対水上戦闘も十分に有り得ると考えられていたからです。
昭和7年、第一次上海事変が起きると加賀が派遣されて中国戦線に赴きます。
(部分的な改装工事に入っていた赤城は中国大陸の戦闘に殆ど参加していない)
加賀の戦闘機隊は日本の陸海軍通じて初の撃墜を記録したりと活躍を見せますが、その一方で戦闘機の援護なしに飛び立った艦攻隊や艦爆隊が多大な損害を出すなど、後に教訓となる様々な経験を積みました。
(この時期には戦闘機無用論を唱える者もいた)。
その後、数々の不具合を解消するために先ず加賀が昭和9年から近代化大改装に入り、交代するようにして赤城も13年に同工事を受けて二隻の艦容が一変します。
(上)赤城 (下)加賀
近代化大改装により三層あった飛行甲板が最上段を残して格納庫になり飛行甲板が延長されたのが見て取れます。
しかしながら改装後の赤城の評価はあまり芳しくありませんでした。
左舷中央に設置した艦橋が航空機の発艦に悪影響を与えたことや(プロペラの回転方向により発艦時に機体が左へ流れる傾向があったため)、反対舷に設けられた煙路との兼ね合いで新設された格納庫の広さが制限され、搭載機の数に影響を与えることになったからです。
また、旧式高角砲の配置が悪く反対舷への射撃が出来なかったり、全体的に火器の数も不足していたので対空能力は貧弱でした。
(新式の八九式12.7cm連装高角砲への換装が見送られた)。
更には機関出力がさほどアップしなかったので最大速力が32.1knから30.2knへ減少すると同時に、航続距離も不足しているため遠距離の作戦行動に対しては制約が生じかねないという状態でした。
対する加賀は概ね好評をもって迎えられました。
飛行甲板が海面から21.7mの高さにあり波浪の影響が少ないのと、長さと面積が広いので離着艦が容易になりパイロットたちから好評を得たこと。
赤城と異なり艦橋配置が適切で離艦の障害にならず、格納庫は後に完成した空母も含めて最大の容積を誇り、そのため日本空母随一の攻撃力を有していました。
航続距離についてもカタログデータ以上に余裕があったので、遠距離の作戦行動にも全く不安を生じず、また戦艦の船体をベースにしていたため航海中の安定性が抜群だったと言われています。
但し、艦尾を9mほど延長して推進抵抗を減じ、タービンを交換して出力をアップしたにも関わらず、最大速力が28.3knに留まったのは他空母との連携という面からマイナス要因となりました。
赤城要目
排 水 量 41,300t (公試)
全 長 260.67m (船体)
全 幅 31.32m
機関出力 13万3,000hp
最大速力 30.2kn
航続距離 8,200浬/16kn
乗 員 1,630名
兵 装 20.0cm単装砲×6基
12.0cm連装高角砲×6基
25mm連装機銃×14基
塔 載 機 零式艦上戦闘機 18機
九九式艦上爆撃機18機
九七式艦上攻撃機27機
63機
加賀要目
排 水 量 42,541t (公試)
全 長 247.65m (船体)
全 幅 32.50m
機関出力 12万7,400hp
最大速力 28.3kn
航続距離 10,000浬/16kn
乗 員 1,708名
兵 装 20.0cm単装砲×10基
12.7cm連装高角砲×8基
25mm連装機銃×11基
塔 載 機 零式艦上戦闘機 18機
九九式艦上爆撃機27機
九七式艦上攻撃機27機
72機
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