では、三国干渉の続きからですね。今回は少し長くなりますが、一気に日露戦争前夜まで話を進めていきたいと思います。
意外なことかもしれませんが、三国干渉に日本が屈したことは朝鮮にも影響を与えました。下関条約でイのイチバンに謳われた「朝鮮の自主独立」は日本も縛っていたことに注目。日本は朝鮮の改革の行方にオイソレと注文をつけるのが難しい状況にありました。これに目をつけたのが誰であろう、かの閔妃でした。
「日本に負けるくらいじゃ清国も大したことがなかったのね。どうしましょう。あら、日本がロシアにビビってるわ。それじゃ これからはロシアと仲良くしましょ」。
閔妃はロシア公使と謀って金弘集内閣に親ロシア派をねじ込むことに成功します。
まるで不死鳥のように何度でも蘇る閔妃。彼女の再登場は日本にとって悪夢の再現以外の何物でもありませんでした。日本政府にどんな意図があったのかは定かではありませんが、ここで日本公使が井上馨から三浦梧楼退役陸軍中将に変わります。そして事件が起きました。三浦公使が着任して間もなくの10月8日未明 日本軍歩兵一個大隊と朝鮮訓練隊、それに日本人壮士たちも加わった一団が王宮殿を襲ったんです。王宮を警護する近衛部隊を片づけた襲撃隊は騒ぎで混乱する宮殿内で閔妃を見つけると、一刀両断のもと即座に殺害して遺体を屋外で焼却してしまいます。乙未事件です。この事件の首謀者は現代の日本でも三浦梧楼公使が有力とされていますが、実のところ 大院君の策謀を裏づける資料などもあるようで正確に断定するには至っていません。何れにせよ、朝鮮近代化のイチバンの障壁だった閔妃がいなくなったのは開化派にとって将来の明るい兆しになるはずでした。
ところが、現実には日本の後ろ盾を得て近代的な政策を打ち出す金弘集政権を朝鮮の人々は日本の傀儡政権と見なして嫌悪します。
「国母を殺して朝鮮が昔から大切にしてきた習慣や文化を破壊しようとしている」。
「そうだ、正義はオレたちにある。立って戦うぞ!」。
というわけで全国で民衆の叛乱が起こります。彼らは その大義名分から義兵と呼ばれています。開化派の朝鮮政府は鎮圧に乗り出します。その首都の防備が手薄になった隙を突いてついに動き出したのがロシアです。
1896年2月11日 ロシア軍に警護された高宗と世子が突然 住まいを王宮殿からロシア公使館へ移してしまいます。露館播遷です。虎視眈々と機会を窺っていたロシアの素早い行動に日本は何も手を打つことができませんでした。
「日本はゆくゆくは陛下のお命さえも狙おうとしているのです」。
という親ロシア派の金炳始たちの言葉を真に受けた高宗はロシア公使館に到着すると直ちに開化派の政府首脳を逆賊とすること、断髪令は廃止することなどを発令しました。金弘集は国王の真意を質そうとロシア公使館に出向きます。それを群衆が集まっていて危険だと忠告すると彼はこう言います。
「総理として同じ朝鮮人の手にかかって死ぬなら天命でしょう」。
そして王宮から出たところで群衆に捕まり、滅多打ちに撲殺されてしまいました。金弘集政権でようやく現実に動き出した近代化は、これでまた元の木阿弥となりました。この後、しばらく日本は朝鮮に何もできない状態が続くことになります。
ここからステージを清国に移します。この時期、清国はアッという間にヨーロッパ列強に食い潰されていくところでした。まずロシアが三国干渉で恩義を売ったのを理由に遼東半島の権益をまんまと手中に収めます。ここに配備された太平洋艦隊が旅順艦隊となって日本に大きなプレッシャーをかけることになります。それを見たイギリスもすぐさま旅順の対岸にある威海衛を租借してロシア艦隊の動向に目を光らせる態勢を整えます。ドイツは元々自国の宣教師たちが活動の拠点にしていた縁で膠州湾を手に入れると、フランスも慌てて適当な口実をつけて華南の広州湾を獲得するといった具合です。各国はそれぞれの拠点を中心に支配地域を設定していきました。日本も福建省を支配下に収めました。となると、ここで名前が出てこなかった国がありますよね。アメリカ合衆国です。アメリカはスペインに因縁を吹っかけて米西戦争を起こしてプエルトリコやフィリピンを手に入れたばかりのところでした。ようやくそれが片付いて次は中国にと思ったら清国の分割は終わっていて付け入る隙がなかったというわけです。
このときまでに清国は洋務運動の失敗を自覚するようになっていました。その清国に登場したのが康有為です。
「古い旧態依然の政治体制と社会秩序に形だけ新しい技術を取り入れたから失敗したのだ。日本の明治維新を倣って根本的に変えていかなければダメだ」。
これを変法自強運動と言います。康有為はさらに言いました。
「日本は近代化に30年かかったが、我が国なら わずか 3年あれば十分だろう」。
これに光緒帝が飛びつきました。西太后から主導権を奪い取るチャンスと見たのでしょう。帝は定国是詔という勅令を出して民間人に過ぎなかった康有為に国家の運営を託しました。つまりイチかバチかの賭けに出たんですね。さらに袁世凱といった大物軍閥たちも相乗りを表明します。でも天下を手中にしたと勘違いした康有為は袁世凱たちの支援を断ってしまいます。これが間違いの元でした。康有為の政策は西太后派の官僚たちによってことごとく撥ねつけられます。進退きわまった康有為は西太后派を宮廷から追放するクーデターを画策して袁世凱に協力を求めます。袁世凱にしてみれば恥を掻かされた相手に復讐するチャンスでもあり、西太后に取り入るチャンスでもありました。こうして袁世凱のタレコミでクーデターが発覚してしまいます。康有為は間一髪のところで逮捕を免れて日本に亡命。光緒帝は紫禁城西側の湖に浮かぶ小島の宮殿から一歩も外へ出ることを許されず それは亡くなるまで続きました。康有為の変法自強運動は 3年どころか わずか 3か月で終わってしまったのでした。そして光緒帝がいなくなった紫禁城では西太后の独裁が始まるのです。
当時、清国の民衆の生活はドン底の状態にありました。彼らは食う物を求めて教会に身を寄せます。そうした人々のことをライス・クリスチャンと言います。また別の人々は義和団という拳法道場に身を寄せます。勢力を拡大するキリスト教は各地で住民との間に問題を起こしますが、宣教師たちは一向に気にも留めませんでした。それがやがてキリスト教に対する大規模な反対運動になっていきました。運動の先鋒に立った義和団は「扶清滅洋(清を助けて西洋を滅ぼす)」を叫んで教会や外国人を襲撃したりし始めました。西暦1900年のことです。
初め、西太后は義和団を取り締まろうとします。でも彼らが扶清滅洋を唱えているのを知ると北京への入城を許します。北京市内を我が物顔で闊歩する義和団は日本公使館の杉山彬書記官やクレメンス・ケッテラードイツ公使を殺害するなどして北京の治安が悪化しました。当然、北京に公使を駐在させていた各国は義和団の取り締まりを清国に迫ったのですが、ここへ来て何を考えたか 西太后は日本を含む西洋列強に宣戦布告をしたんです。これに対して イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、そしてロシアと日本が協同して軍を派遣しました。最も多くの兵を送ったのはロシアと日本でしたが、日本は清国の置かれた状況に同情を示して 実は派兵に乗り気ではありませんでした。イチバン乗り気だったのはロシアで、それはこの機会に満洲の利権を狙っていたからです。これにイギリスが強く警戒して日本を説得したんです。
義和団の乱そのものは比較的簡単に片付けられました。青龍刀や時には拳法で立ち向かってくる相手でしたから。このとき西太后は貧民の格好をして紫禁城を脱出したと言われています。この結果 結ばれたのが北京議定書で、清国の国家予算10年分に相当する賠償金の支払いが義務づけられたのと北京に各国が軍を駐屯させるのを認めることになりました。交渉を担当した李鴻章が西太后から受けた命令はただ一つ。
「私の地位が保障されるなら金に糸目をつけなくて良い。何とかしろ」。
何て女なんでしょう。つくづく呆れてしまいます。こんな女を相手にした李鴻章も可哀相ですが、彼は議定書締結の 2ヶ月後に性根尽きて他界してしまいました。
問題はこのあと。日本がイチバン警戒しなければいけないロシアが議定書締結後も満洲から兵を引き揚げなかったのが発端でした。満洲がロシアの占領下に置かれてしまうと朝鮮が危なくなります。すでに見たように朝鮮の高宗はロシア公使館に身を寄せていてチェックメイト状態なわけです。しかもロシアはシベリア鉄道を もう少しで完成させようとしていました。世界一の陸軍兵力を持つロシアが西から東へ自由に部隊を移動する手段を手にしようとしていたんです。そのために満洲を欲しがっていたというわけです。ここは何としてでもロシアの進出を食い止めなければなりません。そうじゃなければ日本の安全保障が脅かされることになるからです。この辺りのロシアの動きは今日のクリミア問題と何も変わりません。欲しいものは力づくで奪っていくのがロシア流です。
そんな折に結ばれた日英同盟は世界中を仰天させました。七つの海に君臨し「栄光ある孤立」を謳っていたイギリスは どの国とも同盟を結ぶのを頑なに拒んでいました。それが一転して極東の弱小国と手を結んだのですから無理もありません。ロシアのニコライⅡ世もニュースを聞いて妥協案を提示してきましたが、あまりにも強欲な内容だったために交渉は決裂しています。
因みに日本とイギリスの結び付きについて現代の日本人は疎いところがあると思いますが、戦前日本は皇室と鉄道と海軍をイギリスを手本にして作ってきました。海軍で言うと日本は日清戦争で得た賠償金を遣ってイギリスに艦船を発注していました。イギリス側は日本の求めに応じて最新の技術を惜しげもなく日本艦船のために用立てました。そこには自国の艦のために開発された技術を日本の艦で試してみようという事前テスト的な意図もありましたが、お陰で日本海軍が最新鋭の艦を揃えることができたのも事実。勝てる要因が全く見つからない中でも開戦への準備だけは怠っていませんでした。
