聖書通読26日目。
今日もみ言葉で祈ろう
。
木曜日は預言書
〜。
イザヤ18-22章
今日は仕事でひと山。ちょっと前から、今日の会議について気が重く、主にその心を預け預けしていた
。初めて出る会議で、何をするのか分からなかったのも不安材料の一つだった。ここのところの疲れもあり、今朝は家族を送り出した後、もう1時間、もう1時間、もう1時間、と3時間も寝た〜
。
それでも、「こういう時こそ、主との関係が深まるんだ」と、重い腰を上げた。「主よ、今日、気が進まないのですが、そこにあなたのみわざが現れることを信じます!」と祈ってみた
。だって、もはや私が生きるのではなくキリストが生きるのだから
。
主はきっとこう言われたろう。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。(イザヤ18:4)」
そう、主には全てが見えている
。私たちが今日動くことによって、主は主のみわざを進められる。その全ては美しく、慌てる必要もない。このみ言葉を見たのは帰った後だった。ああ、もっと主に信頼できる私となれますよう
。
今日、私が見た主のみわざを振り返る
。私が心配し(そうになっ)ていたことは、会議で何一つ起こらなかった。心に残っているのは一つの出会い
。半年ぶりにばったり会ったAさん。会ったタイミングがすごすぎて、お互い驚き喜んだ
。出会ったのは昨年3月。3回くらいしか会っていないけれど、イエス様の話をしていて、救いのために祈っている人だ
。
主のなさることには時がある
。主は時が熟すのを静かにながめている。「刈り入れ前につぼみが開き、花ぶさが育って、酸いぶどうになるとき、人はその枝をかまで切り、そのつるを取り去り、切り除くからだ。それらはいっしょにして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられた。猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごした。(イザヤ18:5-6)」
主は、私たちの周りの全ての人たちを見ている
。あらゆることを通して、私たちと結ばれるのだ
。そして、たくさんの魂が、主の前に尊い贈り物となって運ばれる。「万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る。(イザヤ18:7)」
ハレルヤ!!!私たちの直面する全てのことに、主のみわざを見よう
。見落としそうな小さなことにも、私たちの霊の目が開かれますよう。「私の目を開いてください。私があなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。(詩篇119:18)」
主よ!私たちの信仰が弱まる時、助けていてください
。全てをなさるあなたから目を離さないよう。「昔からこれを計画された方(イザヤ22:11)」を見つめ続けることができるよう、今日も導いてください
今日もみ言葉で祈ろう
。
主の中で自由に歩もう
。
私の中で自由な主の働きを!
I purpose in my heart to walk in the light of life. I purpose to walk in the light of the life of God in me.
