聖書通読23日目。
今日もみ言葉で祈ろう
。

月曜日は歴史書
〜。

ヨシュア16-20章
私たちの今いる場所は偶然ではない
。確かな理由があって、主がそこに私たちを運ばれた
。人との出会いを与え、関係を結ばせたのも主。どんな環境で何をすれば、その人が最高の姿になれるかは、主が全てご存知だ
。一人一人にふさわしい場所に、主が愛で導かれている
。




ヨシュアのように、カリスマ的指導者モーセのもとで訓練され、素晴らしいリーダーになっていく人もいる
(出エジプト17:8-14)。イサクのように、信仰の祖アブラハムを父に持ち、穏やかで柔和な人格を持って神の道を行く人もいる(創世記26)
。


しかし、安心しよう。自分の歩む環境が自分の目に万全に見えるかどうかは関係ない
。大事なことは、主との関係がどうかということだ。

整った体制の中、育ててもらった方がいい人は、最初からそこにいる
。少し不足な環境で歩んだ方が開花する人はそこに置かれている
。サムエルがそうだった。仕えていた祭司はそう立派な人でもなかった。母ハンナが渾身の祈りをしている時に「酔いをさましなさい。(Ⅰサムエル1:14)」」と言ってしまったり、息子たちの問題を治めることができなかったり(Ⅰサムエル3:13)。それでも、サムエルはそこで動かず、大木のように成長する
。サムエルは人ではなく、主に仕えていた。心の中心を見られる主は、不足であっても祭司エリを通して、サムエルを見事に導いた
。




最悪の環境でこそ、真価が発揮される場合もある
。ダビデがそうだった。それは本当に高度な歩みだ。そんな時は、特別に選ばれたことをもろ手をあげて感謝すべきなのかもしれない
。問題ありありなサウルを、それでも「主に油注がれた方(Ⅰサムエル24:6)」としてダビデは仕えぬく
。超スペシャルな訓練の中で、ダビデは人ではなく、主に仕えることを学んでいく。主が祝福しないわけがない。ダビデと主との関係は、誰もそこに入り込むことのできないほど深いものになっていた
。





環境がどうあれ、主の道を行く人に共通しているのは、自分が砕かれていること
。最高の指導者のもと、歩んだヨシュアも、モーセのたしなめを受けたりしながら鍛錬され(民数11:28~29)、ついには「知恵の霊に満たされ(申命記34:9)」るほどに成長した
。



あー、私も築きたい。主との間に誰も入り込むことのできない関係を
。そこに入り込むのは、人だけではないと今日感じた。体の疲れ、ちょっとしたトラブル、何かの不安、心配、恐れ、そんなものが神との関係をぼやかせる
。


だから、疲れた時こそ、主に近づこう。不安や心配ゆえに、主に頼ろう。自分の知恵ではなく、神の御心に私たちが従おうとする時、私たちの全ての環境は益となる
。恵まれているなら恵まれているなりに、不足なら不足な場でしか得られない体験が私たちの賜物を開くのに役立つ。


全て主の御手にあって進んでいることに信頼しよう
。

今日もみ言葉で祈ろう
。

主の中で自由に歩もう
。

私の中で自由な主の働きを!
The life that came into you at the New Birth can affect your mental processes by governing your thinking and your intellect.