聖書通読22日目。
今日もみ言葉で祈ろう
。

日曜日は律法
〜。

創世記12-15章
一年は長いようで、そう長くもなかったか。主日を数えれば、たったの52回。そんなに限られた日数だったとは!!! 私にとっては衝撃的な少なさだった
。もうすでに3回捧げたから、あと49回。たったの49回を、私はどう捧げよう



もっと心を込められる。もっと備えられるはず。たった49回と知ったから、一日一日を主と歩み、また新しい一週間の始まりに、最高の礼拝を捧げたい
。


それも自分の努力でなく、聖霊に導かれ進む道
。主が求めておられるのは、真の礼拝者。真の礼拝者は形でなく、習慣的にではなく、霊とまことで礼拝する
。「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。(ヨハネ4:23)」




ああ御霊の導きを求めよう。全ては備えられている
。「主の山の上には備えがある(創世記22:14)」主の山とは、主の臨在のあるところ
。そこで主が全てを備えられる
。この一週間、どれだけ主の臨在の中に入っていけるだろう
そこで何を示されるだろう








神はアブラハムを選び、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。(創世記12:2)」と約束する。そして、約束の地カナンを与えること(創世記12:5-7)、子孫が星の数のように増え広がること(創世記12:4-5)などが示された。こうしてアブラハムはあらゆる人々の祝福の基(もとい)となった
。


そして、驚くべきことに、このアブラハムへの祝福が私たちにも約束されている
。「アブラハムへの祝福がイエスキリストによって、異邦人に及ぶ(ガラテヤ3:14)」。イエスキリストにある者たちが同様の祝福を受ける。それは具体的にどういうことかといえば、「私たちが信仰によって約束の御霊を受ける(ガラテヤ3:14)」こと
。聖霊を受け、聖霊によって歩むとは、あらゆることが与えられること
。そこに全てがある。





神はアブラハムを選んだように、私たちを選んでくださった
。神がアブラハムを祝福の基とされたように、私たちを祝福の基としようとされている
。それが私の人生で何を意味するのか、私にはまだ分からない。ただ主のみ言葉を信じるのみだ。




主の山の上にのぼり、主の臨在の中で、尋ねてみよう
。そのことの大きさだけは押し迫るように感じる。聖霊に導かれることができるよう、自分が従っていけるよう、ただ私は自分を砕いていよう。主の前に心ひれ伏していよう
。



今日もみ言葉で祈ろう
。

主の中で自由に歩もう
。

私の中で自由な主の働きを!
I am a new creature. The life and nature of God has been imparted to my spirit. God is love. I will let His life dominate me. I will let His love dominate me.