一般社団法人浪江町地域文化フォーラムです。

来週2月24日に開催されます「第8回浪江を語ろう!」の準備も着々と進めているところですが、同日午前中に泉田城をめぐるイベントが町内で開催されるようです。

 

そこで今回の「第8回浪江を語ろう!」のテーマとも関わりますので、泉田城の近世後期について、史料を用いつつ、簡単に述べてみたいと思います。

 

泉田城はもともと標葉氏の一族でありました泉田氏の居城でした。標葉氏による標葉郡の領有が終焉を迎えた明応元年(1492)以降も相馬氏の家臣として、同城に住しました。近世に至って、相馬中村藩初代藩主である相馬義胤が隠居場としてこの地にいたことが確認できています。

 

その後、この地は「古城」という地名になりました。そして、近くの来祥院という本山派修験の土地になったものと思われ、相馬中村藩の地誌『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)北幾世橋村の項目にこの地に関する記述が確認できますので、次に史料を見てみたいと思います。

 

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古舘址 在満海、

(中略)

文化元甲子年自南幾世橋遷稲荷・金毘羅神祠于古城、別当修験来祥院、永世貸山圃四斗五升、而准社料、居此地、古塁下華表傍有方三四間許芝生地、寛文八年当邑人寺嶋五郎兵衛〈郷司書算吏〉坐農民騒乱之事、賜死於此地、伏剣故至于今不墾此土云、

(中略)

泉田山来祥院、居(ママ)  本山派修験高平山上之坊派下謁見地、開祖不詳、延享中号廣澤院、文政頃称傳正院、旧在南幾世橋十日林、文化元甲子年移焉、旧来稲荷・金毘羅両祠別当、貸賜社料山圃四斗五升、

 

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簡単に解説すると、現在の泉田城址は丘陵になっている部分だけでなく、その周辺の平地も含む空間であったもの思われますが、文化元年(1804)に南幾世橋村(現在の浪江町大字幾世橋)十日林というところから、本山派修験の来祥院が転居してきました。その際に稲荷と金毘羅の祠を安置したとのこと。「山圃四斗五升」を永久に貸したとあるので、現在の泉田城址の丘陵地にこの2社が安置されたものと思われます。

 

なお、この泉田城址の一角の鳥居(史料では「華表」)の傍らに3~4間(約5.4メートル~7.2メートル)の芝生があったそうです(いまでもあるのでしょうか??)。これは寛文8年(1668)に百姓一揆の際、この村で書記や計算を担当した役人の寺嶋五郎兵衛が殺されて(あるいは死罪)、その土を耕すことはなかったため芝生になっているとのことです。そのような伝承は現在どうなっているのでしょうか??

 

なお、丘陵地に安置された稲荷と金毘羅の祠を管理した来祥院ですが、廣澤院・傳正院とも称していたようです。もちろん、明治初年の修験廃止に伴い、廃寺となったと思われます。現在、泉田城址に不動明王が安置されているようですが、来祥院の本尊は不動明王と目されますので、何か由来があるかもしれませんね。

 

 

正面の丘陵地が泉田城址。2023年6月23日万海橋より撮影