『ラン・ローラ・ラン』を観た。
1998年のドイツ映画。こんなに古かったのか...。
最近、『トゥルー・コーリング』というアメリカのドラマを見ていて、そこにこの映画とのアナロジーが書いてあったから、なんとなく。
いわく、
『トゥルー・コーリング』のトゥルーも、同じ時間を「もう一度やり直す」ことができるんだけど、それは1回だけ。一方、ローラは恋人を助けるため何度も「もう一度やり直す」。
このアナロジーは正しくないように思った。ローラは「やり直す」のではない。彼女は前のラウンドで起こったこと、自分がしたことを覚えていないし、前回と同じ目的を持って、同じところに向かって走るだけ。
一方、トゥルーは前に起こったことを覚えていて、死んだ人を助けるという目的のために、「現実」を変えようとする。
『ラン・ローラ・ラン』では、「現実」はないのだと思う。
ほんのちょっと出発が遅れただけで、さまざまなタイミングが重なり合い、自分や他人の人生の結末が変わってしまう。そこには何らかの意志の変更もないし、行動の違いもない。ただ、出発が遅れただけだ。
たしかに、ローラは3回、「やり直す」。最後は「ハッピー・エンド」となり、何もかもうまくいく。しかし、本当にそれが最後で、それで終わりで、それが結末だったのか。そうではないように思った。それは数ある現実の1つでしかない。
最初に、ローラはバイクを盗まれる。タクシーが道を間違える。その「結果」、マニはお金をなくして、「殺されかける」。これこそタイミングのズレで起こったこと。しかし、マニはローラを責める。「お前が来なかったからだ」。
タイミングやズレの重なり合いで起きていることに対して、私たちはさまざまな理由付けで責任を見つけているのかもしれない。
題材のどうしようもなさが、逆にこの映画を面白くしていると思った。
今日は、『トゥルー・コーリング』の第5話がある。