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『大字誌 浪江町○○』調査日誌

旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2024年7月12日。

 

西村慎太郎です。9月7日に開催される「第10回浪江を語ろう!」では大字幾世橋についてお話ししますので、現在、大字幾世橋について勉強中。

『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。福島県編輯科旧蔵)より、引き続き北原御殿に鎮座した「御浄所」こと養真殿について検証してます。

 

今日も養真殿に関する記述を読み進めたいと思います。適宜、常用漢字に直し、読点を入れてます。

 

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享保三年戊戌九月掲養真殿勅額、養真殿准吉田家宗源殿、宗源殿准禁裡紫宸殿云〈非国司無養真殿之勅許、於奥州在會津侯、云昌胤公奉勅称之、養真義解有兼敬書、略之〉

 

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この記述に続いて先日のブログで書いた養真殿の「勅額」の描写があります。繰り返しになりますが、「勅額」とは天皇が揮毫した額のことですが、ここのは決して「勅額」ではなく、公家の吉田兼敬による揮毫です。それを「勅額」と表現している所以については検討中。

 

さて、ここの文章の内容ですが、享保3年(1718)9月に養真殿に勅額が掲げられました。この養真殿は公家の吉田家の社殿である宗源殿に准じていました。なお、中世後半から近世中期に至るまで朝廷の新嘗祭はここで開催されていました。この吉田家の宗源殿は御所の紫宸殿に准じていると評しています。ただ、近世の新嘗祭って神嘉殿で開催されるから、このあたり『奥相志』の編者の勘違いでしょうか。

 

そして、割注。

国司(ここでは近世の国持大名)でなければ養真殿の勅許は得られず、奥州だと勅許を得られたのは会津侯でした。会津の勅額ってどこでしょうか?? もしかして鶴ヶ城の中にあった東照宮でしょうか??

 

さて、相馬昌胤公は天皇の意向を奉って養真殿と称しました。ここでは勅を奉ったとありますが、詳細は不明。吉田兼敬が書いた『養真義解』という書があるようです。これについては『国書総目録』でも確認できず、この書については省略されているので、これも詳細不明。

 

いろいろと怪しさが遺る記述ですね。。。