調査日誌422日目(通算1306日目) -『寺島長門集』に見る浪江①- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2024年12月30日


西村慎太郎です。

先日より昭和初期に浪江町で医師を務めていた寺島長門という人物を追っています。前回のブログにも書いたように、寺島長門とは、①明治31年に長野で生まれたこと、②東大医学部を経て、慶応大附属医院に勤務していたこと、③大正13年には浪江町に住んでいたこと、④ルイジ・ピランデルロ『生けるパスカル』など、翻訳をしていたこと、⑤昭和2年に自ら命を絶っているようです。

 

では、本日より寺島の遺稿集『寺島長門集』から浪江に関する記事を見てみたいと思います。単に調べているだけで、何も論点は提示できないんですがww

 

本日は「花嫁往診の記」という大正13年(1924)の随筆について。『寺島長門集』10頁から記されています。あらすじは↓

 

急患のために大堀村へ人力車で向かっているところ、途中で子どもたちから「嫁さまだ!!」と騒がれ、このあたりでは人力車が通るのは花嫁が来る時しかないんだなと寺島は思いました。また、もう少し進むと今度は十代後半の女性たちとすれ違って、「嫁どんかや!」と叫んできました。さらに村の中心あたりまで来て多くの人びとがいる広場を通ると、「嫁どん!」と言って、人力車の幌の中を覗いた人から「婿どんだっぺ!!」と言われました。翌日、診察室では、昨日大堀村で嫁取りがあって賑やかだったと話している人がいたとのこと。

 

あらすじは以上ですが、寺島の感情なども書かれているのでぜひ原文を読んでみてください。興味深い点としては、大正期後半段階、浪江町以西で人力車が通るのは嫁取りの時ぐらいだった点ですね。あと、人力車に乗っている寺島が「私の俥は相不変、一月十五日の余震以上の振幅で動揺を続け乍ら走つてゆきました」とあるように関東大震災の余震が浪江でも感じられるほどだったようです。

 

なお、この時の余震については「国民新聞」で「今朝再び関東地方一帯に大地震起る」と報じ、東京はバラックばかりだったため、被害は少なかったが、青森行きの列車が鶯谷駅付近で脱線したとのことです。

 

https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C08051302700