調査日誌243日目(通算1127日目) -南幾世橋について- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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2024年7月2日。

 

西村慎太郎です。

前回は平凡社の『日本歴史地名体系』から北幾世橋村の基礎的な点を検証しました。本日は(南)幾世橋村について見てみたいと思います。

 

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南幾世橋村
みなみきよはしむら
[現]浪江町幾世橋

北を泉田川、南を高瀬川が流れ、村の東で合流して請戸川となる。西は権現堂村、北の対岸は北幾世橋村。もと泉田村と称し、寛文六年(一六六六)泉田村を南北に分け、当地は南泉田村と称したが、宝永年間(一七〇四―一一)南幾世橋村と改めたという。単に幾世橋村とも称した。正保郷帳に泉田村とあり、田方七〇〇石余・畑方五五八石余。元禄郷帳では泉田村は高一千六〇石余、北泉田村は高九三〇石余。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に「弐百七拾貫五百三十文 泉田□□□」とみえるが、これは泉田胤清の采地二七五貫三〇文のことという(奥相志)。寛永一六年(一六三九)の泉田村の高一千八〇八石余、南北に分村したのちの天明六年(一七八六)には高七一三石余、天保一四年(一八四三)の検地で高七八三石余となり、うち寺社料および給地が一五八石余あった(同書)。天保郷帳には幾世橋村のみが記され、「古者 泉田村・北泉田村二ケ村」とあり、高一千九九〇石余。天明三年の家数二四、嘉永元年(一八四八)の家数一九(検地石高収納戸口等調)。

相馬三十三観音第一八番札所の聖観音堂がある。相馬昌胤が北原御殿に在住した頃には当地は寺社が多く、修験者も多く住んでいたと伝える。

 

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前回のブログにも記しましたが、『日本歴史地名体系』には幾世橋村成立以前、すなわち泉田村段階の歴史については触れられていません😅

さて、それはそれとして、(南)幾世橋村は村高に比して家数がずいぶん少ないです。この理由については現在検討しているところですが、そもそも田畑が広がっている地域に北原御殿が建立したことで人の流入が始まったためと思われます。なお、(南)幾世橋村には在郷給人は存在していません。

 

あと、以前のブログでも書いた長田観音堂があります。