調査日誌179日目 -近世末期の赤宇木村について- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2024年4月28日。

 

ニュースでご覧になった方も多いかと思いますが、このたび赤宇木記録誌編集委員会編『浪江町赤宇木の記録 百年後の子孫たちへ』(赤宇木記録誌編集委員会、2024年)が刊行されました。写真も非常に豊富であり、昭和・平成の地元のイベントや会合などをはじめとした生活誌として、大変貴重なものとなっています。また、世帯誌としての側面も持っており、まさに「百年後の子孫たち」に向けた一書になっています。

 

このブログでもこれまで赤宇木地区については、薬師堂と姫渕・下女渕・佐藤渕について記しました。

 

 

 

すでに何度か記しましたが、相馬藩領のうち、南標葉郷と山中郷(さんちゅうごう)は相馬藩領を理解する上で不可欠な『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)に記述がありません。

一方で、『東北アジア研究センター報告 23 旧陸奥中村藩山中郷基本資料』(東北大学東北アジア研究センター、2016年)は、相馬市歴史資料収蔵館蔵海東家文書から翻刻したもので、このうち「村々調」という史料は『奥相志』の前提となるもので、近世後期の山中郷を理解する上で大変貴重な史料です。東北大学機関リポジトリに全文が公開されています。

 

https://tohoku.repo.nii.ac.jp/records/67690

 

今回はその「村々調」より赤宇木村の土地について確認してみたいと思います。以下、翻刻です。

 

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       赤宇木村

一、東西 弐里廿壱丁

  南北 壱里

       位下ノ上

  高弐百五石壱斗六升九合壱勺

  田畑四拾弐丁壱反三歩

   内 拾丁八反四畝拾歩 生地

   同 四反四畝廿八歩 萬倒

   同 三拾丁八反廿五歩 荒地

 

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赤宇木村は東西2里21丁(約10130メートル)×南北1里(約3920メートル)。元禄の大検地で確認できた村位(村の生産高などを評価したもの)は「下ノ上」でした。

 

村高(村の規模を示すもの。年貢・諸役の基準となった石高)は205石1斗6升9合1勺。近世の村としては比較的小さい村と考えられます(なお、村高だけでは村の規模や生産性、生活は判断できません)。

 

田畑は42町1反3歩(126303坪。41.75ha)。だいたい東京ドーム9個分です。

 

このうち、「生地」は年貢地として指定された土地で10町8反4畝10歩(32530坪。約10.75ha)。

 

また、「萬倒」と記された土地は、相馬藩において、田畑として検地帳に記されていたけど、道になったり、川の氾濫が起きてしまったり、用水・堀になった土地のことで、4反4畝28歩(1348坪。0.44ha)。

 

一方、荒地として年貢が免除された土地は30町8反25歩(92425坪。30.55ha)にも及んでいます。つまり村内の73.1%が荒地となってしまっていました😓