調査日誌173日目 -北幾世橋の愛宕堂- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2024年4月22日。

 

ここのところ旧北幾世橋村内の祠について『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)から検証していました。

 

そこで三宮と八幡宮と天満宮などの祠官(神職)であった鎌田和泉正について検証してみましたが、鎌田氏が住していた町裏(おそらく現在の大字北幾世橋字町後)の隣、現在の内匠町にお堂があったかと思います。東日本大震災の供養碑がある辻のところです。

 

この堂がなんだったかなーっと思い、住宅地図で確認したところ愛宕堂であることが確認できました。余談ですが、以前、請戸や両竹に行く際、浪江駅から歩いて向かっていましたが、必ずこの道を通っていました。いまだとスマモビなどがあるので簡単に行けるようになりましたが。。。

 

本日は『奥相志』から愛宕堂について確認してみたいと思います。

 

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愛宕山地福寺 在番匠町、方今合于大聖寺、

當山開基由来未詳、寺域有愛宕・弁天・火天尊三祠、

宝暦元辛未年寺院簿所載、弁天祠・愛宕祠・薬師堂・十三堂在寺境、

弥陀堂・虚空蔵堂・十三堂在寺外、

 

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その名もまさに山号が愛宕山。地福寺という寺号で、北幾世橋村番匠町にありました。現在の内匠町(ばんじょまち)ですね。『奥相志』編纂段階では大聖寺に合院されたようです。

 

開基や由来は不明。この寺域に愛宕堂があるので、現存する愛宕堂がこれに該当するものと思われます。

 

ところで、あまりこのあたりの写真を撮ったことがないので、間違っているかもしれませんが、下の写真が愛宕堂でしょうか?? この写真、『大字誌両竹』を執筆するための調査で浪江駅から歩いている途中で撮影したものなんですが、まったくメモを遺しておらず😅 たぶんこれが愛宕堂だと思いますが、今度確認に行ってきます(2018年3月19日撮影)。

 

ってここに画像を貼り付けて気が付きましたが、鰐口じゃなくて鈴じゃない?? 神社ってことか?? 愛宕堂じゃなくて愛宕神社か??

 

やっぱり今度ちゃんと行かねば😅