2024年3月20日。
昭和8年(1933)の標葉氏顕彰運動に関わる古文書を見ています。前回は小丸地区の山田忠雄宛鈴木松五郎書状について翻刻しました。
今回は鈴木松五郎宛標葉長治書状を翻刻してみたいと思います。適宜読点を付けたいと思います。
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(封筒表)
「
雙葉郡浪江町川添
鈴木松左衛門殿(ママ)
御直披
」
(封筒裏)
「
會津若松第一尋常高等小學校長標葉長治
」
拝啓
二月廿七日発行福島新聞紙ニ依れば、貴殿発起ニて標葉清隆父子の墓碑建設之企有之由、誠ニ慶賀此事ニ候、而して標葉家縁故者ハ碑文ニ記名し都合有之候ニ付、三月十日頃迄貴殿宛申込まるヽ様にと有之候、小生一家ハ標葉家ノ後裔と先祖より確信致し居るものニ候間、該碑文中ニ記名相成候様致度、尚調査上参考之為め、別紙差上候間、篤と御調査相願度候、先ハ御依頼まで、
三月二日
標葉長治
鈴木松左衛門殿(ママ)
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標葉長治は若松第一尋常高等小学校の校長。宛名は鈴木松左衛門となっていますが、おそらく鈴木松五郎のこと😅。
さて、興味深いこととして、標葉長治は福島新聞紙上で建碑のことを知り、鈴木松五郎へ連絡を入れたようですね。当初は建碑のメンバーではなかったことがうかがえます。そもそも紀念碑建立の発起人は川添地区の移民の末裔が中心でして、そこから話が広がっていっています。ここにはどのような経緯があったのか、重要な研究課題ですね🤩