調査日誌129日目 -大字請戸の苕野(くさの)神社の由緒について⑩- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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2024年3月9日。

 

西村慎太郎です。

さて、『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)に記された苕野(くさの)神社について見ています。本日も苕野神社の「縁起」について見てみたいと思います。「縁起」とは、寺社の起源、沿革や由来のこと。

 

前回は『奥相志』に掲載された「標葉記」の内容を見てみました。「標葉記」に次いで記されているのが、苕野(くさの)神社の神職である鈴木家に伝来した記録です。

 

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鈴木家傳曰、當社元正帝養老元丁巳年出現小嶋焉、自養老至保元年中四百三十餘歳、其間請戸・棚塩両濱民家為鎮守、崇信之、自保元中至長享元年〈謂長享誤明応元年也〉標葉家泯滅三百三十余歳也、近代称貴布根云々、

 

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鈴木家の記録によると、この神社の元正天皇在位の養老元年(717)に小嶋が出現しました。これって地震か何かによって陸が隆起したことを表しているものと思われます。

 

養老年間から保元年間まで430年余りになります。その間請戸・棚塩の人びとの鎮守となって、崇敬を集めていました。保元年間から長享元年(これは明応元年の誤りであると『奥相志』の編者は割注を付けています)まで標葉氏が滅亡するまで330年余りです。最近では「貴布根」と称されています、と記されています。