調査日誌100日目 -昭和8年「標葉清隆公父子墓碑建立趣意書」の内容を見てみよう- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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2024年2月9日。

 

西村慎太郎です。

標葉氏の顕彰運動について、諸史料から検討しています。

 

前々回のブログで昭和8年(1933)12月に作られた活版印刷の「標葉清隆公父子墓碑建立趣意書」について翻刻してみました。再録すると以下のとおりです。

 

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   標葉清隆公父子墓碑建立趣意書

抑々浪江町大字川添八幡山正西寺は元の香積山華光院の旧地にして同院は標葉の城主標葉家代々の菩提所なり、

記録を按ずるに標葉氏は建武年中標葉一郡を領し、本城恵比寿堂の城に居りしが、後権現堂の城を築きて、之に移り、武威を近隣に張れり、夙に南朝に心を寄せ霊山城の北畠顕家郷(ママ。卿)と力を協せ、皇運の恢宏に努めたりしが、明応元年十二月十五日時に利あらず、悲むべし権現堂・恵比寿堂の城は落ちて、清隆・隆成父子は自刃し、標葉家は十一代三百余年にして、遂に断絶するに至れり、爾来春風秋雨四百五十年遺蹟荒廃して、世人の之を訪る者なかりしが、嘉永五年山田紀元氏の建立にかゝる石碑によりて、只僅に其の跡を知るに過ぎざるなり、

今般我々有志甚だ之を遺憾とし、相謀りて、聊か其の墓碑を修めて、其の忠節を顕彰し、以て民心作興の一助となし、併せて之を後代に伝へて、地方の一名蹟たらしめんと欲するなり、

願くは七百年の古此地方の領として、王事に勤労せし標葉氏の忠節を追慕する大方の有志は奮て御賛成・御援助あらんことを切望して止ざる次第なり、謹言

 

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ポイントは次の点です。

 

1. 標葉氏は建武年間(1334年~1336年)に標葉郡(現在の双葉郡北側)を領有して、「本城恵比寿堂」(現在の浪江町権現堂字本城)に館を設けて、のちに権現堂城を築く

 

2. 南朝方の霊山城(現在の福島県伊達市)の北畠顕家に協力して「皇運の恢宏(天皇の命運を広めること)」に努力したが、明和元年(1492)12月15日に標葉清隆・隆成父子は自刃した ←西村の誕生日🤩

 

3. 以降450年遺蹟は荒廃してしまったが、嘉永5年(1852)山田紀元が石碑建立

 

4. 今回、有志たちで墓碑を修復して、標葉氏の忠節を顕彰し、「民心作興(国民精神を奮い立たせること)」の一助とする。

 

興味深いのは南朝方に従った標葉氏を顕彰する点で、「皇運の恢宏(天皇の命運を広めること)」、「民心作興(国民精神を奮い立たせること)」という語を使っている点です。前者は教育勅語に記された一文、後者は昭和4年(1929)に浜口雄幸内閣が国民教化として発表した「十大政綱」のひとつです。昭和8年に作られた「標葉清隆公父子墓碑建立趣意書」が明らかに当時の民衆教化の国家的な動向の一端です。

 

もうひとつは興味深いのは南朝の北畠顕家との関係が出ていること。南朝顕彰運動との関わりもあるものと思われます。