調査日誌77日目 -小丸村に居住した小丸氏の歴史⑥ 近世の小丸騒動- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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2024年1月17日。

 

西村慎太郎です。

前回は『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)より小丸氏が標葉氏に仕え、のちに相馬氏に仕えて、戦国時代を生き抜いたことを確認しました。

 

引き続き、小丸氏の歴史について、近世に入ってからの記述を『奥相志』から確認してみたいと思います。近世の小丸騒動の続きです。

 

 

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即告此挙于泉田、公命逮捕残徒于仙道葛生、而徒党親戚十三人磔於鷹巣川原、其後小人阿部太郎左衛門有罪、竊逃来、而請助命、久右衛門私遣之三春古道、後被虜、而白状、公盛怒士命伐之、久右衛門恐而逃于新地、弟七右衛門蟄居立谷邑、伯父縫殿蟄居于両竹邑、小丸家遂滅、後久右衛門被赦、而皈、其子勘十郎〈後号一閑〉寛文中賜新田、為給人、尓後相続居室原邑、其他称小丸氏者皆其余裔也、

 

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前回までのあらすじ。

小丸主水は家臣の七右衛門や監物たちによって殺されてしまいました。ちょうどそのころ、小丸主水の甥である久右衛門は泉田村(現在の浪江町北幾世橋)の相馬義胤に会っていました。帰路、久右衛門は監物・七右衛門と出会い、これらと戦いました。

 

さて本日の話。

すぐに久右衛門は泉田城にいた相馬義胤公に告げたところ、義胤公は残党を捕らえることを命じまして、「仙道葛生」で捕らえました。「仙道葛生」ですが、葛尾のことでしょうか?? 

 

残党たちとその親戚13名は鷹巣川原という場所で磔に処されました。

 

その後、小人の阿部太郎左衛門という人物が罪があって、ひそかに逃げて、助命を乞いました(誰に??)。このあたりの事情は不明なんですが、久右衛門は三春領の古道村にて阿部を捕らえました。さらに事情が分からないのですが、義胤公が怒って阿部を斬ったところ、久右衛門は恐れて、新地へ逃れ、弟七右衛門は立谷村(現在の相馬市立谷)、伯父の縫殿は両竹村(現在の双葉町・浪江町両竹)に蟄居して、小丸氏は滅んでしまいました。

 

のちに久右衛門は赦されて戻り、息子の勘十郎は寛文年間(1661~1670)に新田を賜り、給人となって、室原村(現在の浪江町室原)に居住することとなりました。

 

両竹村の小丸氏は小丸地区の小丸氏一族なんですね。