調査日誌60日目 -牛渡氏- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2023年12月30日。

 

西村慎太郎です。

前回のブログでは樋渡村萬蔵院が別当(寺院が管理する神社)を務めた牛渡村天満宮について、『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬氏指定文化財)から見てみました。牛渡村天満宮、昔は牛渡氏の鎮守であったようですので、本日は『奥相志』牛渡村の項目から牛渡氏を見てみたいと思います。

 

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  古舘址、平地在大添、古昔牛渡氏居焉、

牛渡氏小野姓猪狩氏流也、号牛渡播磨重清、標葉郡主平持隆勲臣称七人衆者之其一也、當標葉清隆之世、家泯於是、牛渡美濃清忠〈重清嫡男〉為相馬之臣、采地依𦾔出軍役五騎、後有故、没采地、有二子、長曰治部允盛清、次曰近江清包、共走岩城、当 顕胤公之時、為岩城襲富岡堡、盛清戦死後清包被赦、皈于相馬、盛清子曰八郎右衛門宗清、為郡山氏、被育居両竹邑、學陣螺、得其妙、数有戦功、賜采地、移居太田邑別所、其子太郎左衛門保清元和三年没采地、居小野邑其子太郎左衛門實清移中村、世々相續矣、我藩称牛渡氏者皆此同流也、

 

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牛渡氏がもともと屋敷を構えた牛渡村大添。現在でもこの字名は遺っていますね。

牛渡氏は小野姓、つまり小野妹子とか、小野篁とか、小野小町とかの一族で、猪狩氏の流れとのこと。牛渡播磨重清が標葉持隆の家臣として七人衆のひとりでした。

 

標葉清隆が討ち死にした際、牛渡氏も一度は没落したようですが、重清の嫡男である牛渡美濃清忠は相馬氏の家臣となりました。軍役として5騎を担ったようです。のちに何か問題があって知行地を没せられました。

 

牛渡美濃清忠にはふたりの息子がいて、長男は治部允盛清、次男は近江清包と称して、岩城氏の家臣となりました。相馬顕胤(1508~1549)の時に富岡を攻めた際に長男の治部允盛清は討ち死にしてしまいましたが、次男の近江清包は赦されて、再び相馬氏に仕えることとなりました。

 

治部允盛清の息子である八郎右衛門宗清は郡山氏となって、両竹村で成長することとなりました。その際、陣螺(じんがい。ほら貝のこと)を学んで、その技を得たようです。このあたりについては相馬藩士の系譜集である『衆臣家譜』にも掲載されていると『もろたけ歴史通信』vol.129で泉田邦彦さんが紹介しています。

 

 

八郎右衛門宗清は何度か戦功を得て、太田村に居住しました。宗清の息子は太郎左衛門保清で元和3年(1617)に亡くなり、その息子の太郎左衛門實清は中村に移って、相馬藩士として発展していくこととなりました。

 

相馬藩士としては、牛渡太郎右衛門家・牛渡万左衛門家・牛渡宇太郎家がありました。在郷給人としては確認できません。