【2 days until...】調査日誌383日目 -権現堂村も山論に関わった「標葉山」とは- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2022年3月30日。

 

浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊

前回は今野美壽『相馬藩政史』下巻(相馬郷友会、1940年)や『双葉町史資料シリーズⅣ 近世史資料』(双葉町教育委員会、1986年)に収録されている「標葉論山覚書」という史料を検証してみました。いろいろと調べているんですが、この争論に関する研究って、自治体史も含めて皆無でした。関連文書も現存するかもしれないので、今後、三春領側の資料もあるのか検証してみたいと思います。

 

ところで、この争論の発端は北標葉・南標葉郷の人びとが「標葉山」より材木の伐り出して請戸川を流したところ、三春藩領であった古道村(現在の田村市都路町古道)傳十郎がクレームを付けたことに由来します。「標葉山」という山がどこのことを示しているのか、よく分からないですが、古道村の近隣のだとすると請戸川より川下げするような位置ではなく、より南の高瀬川から川下げするものと思われます。またいずれの河川も川下げのための筏を組めるような土場はかなり下流に行かないと設定できないと思われますが、両河川沿いのどのあたりに土場があったのでしょうか??

 

この点、『浪江町史別巻Ⅱ 浪江町の民俗』(浪江町、2008年)に、津島の材木について、「木材の伐採は、かつては一月から二月の雪のあるときに伐採し、橇で搬出したと、藩政時代の古文書にある。また、キンマ(木馬)と呼ばれる土橇が木材搬出に使用された」と記されていますが(135頁)、これは土場までの陸路のことを記述したものと推測され、そこからは川下げを行い請戸湊まで運ばれたものと推測されます。

 

いずれにしても、争論の発端になった古道村について、平凡社の『日本歴史地名大系』からまとめてみたいと思います。

 

・古道川・山口川・南川・高瀬川流域で、三郡森・大鷹鳥谷山・頭ノ巣(つぶりのす)・檜山などに囲まれた高原地域

 

・村名は浜通りから中通りへ抜ける朝廷への貢進の古道であることと由来(都路村史)

 

・縄文時代早期から平安時代にかけての遺跡あり

 

・戦国時代末期から近世初期にかけて開発され、近世初めは常葉郷に含まれた

 

・文禄3年(1594)会津を支配した蒲生家の「蒲生領高目録」では常盤6924石余のうちとされ、常葉町とともに1605石余で玉井数馬助(家老稲田貞右)の知行地と推定

 

・正保2年(1645)「在々屋敷数家数并人数」(三春町史)に古道村とみえ、屋敷数59・家数198、人数348

 

・三春藩の馬産政策により藩営の牧場があり、常葉糶4ヵ村のひとつがあった

 

・山間高冷地のため材木の伐り出し・炭焼・鉄吹きのほか、山焼による山畑の耕作、鹿・猪狩などが行われたを行った。

 

さて、『日本歴史地名大系』には山論に関する記述があります。それを抜粋すると次の通りです。

 

「当村では二度の山論があった。一件は相馬藩領との山論で、元禄一〇年古道村庄屋遠藤十三郎・同伝十郎ら連名の出訴で、相馬藩領野上村(現大熊町)、山田村・羽鳥村(現双葉町)、大堀村(現浪江町)を相手に、中屋敷・万右衛門沢(現大熊町)、中丸木川(現浪江町)を村境と主張したが、元禄一二年平七峰続き(現在の郡界)と判決され敗訴。もう一件は元禄一四年頃磐城平藩領川内村(現川内村)を相手に、吉野田和窪(現同上)を村境と主張したが、宝永二年(一七〇五)頃大鷹鳥谷山の峰通り(現在の郡界)との判決があり敗訴した(都路村史・相馬藩政史)。寛政一〇年(一七九八)の在郷給人被下候者書付(三春町史)によると、庄屋遠藤十三郎は切腹させられたとされる。これら山論に関する元禄一〇年の訴状(相馬藩政史)には、山根村(現常葉町)、岩井沢村・当村の者が銅屋を建て炭竈を築き、鉄吹きをしていたことが記され、中世末期から近世初期以来森林資源を活用し、製炭・製鉄が行われていたことがわかる」

 

『都路村史』、ノーマークでしたので、こちらの記述とともに、何らかの原文書が掲載されているかもしれないので、このあたりも検証してみたいと思います😄 いずれにしても、「標葉山」とは現在の郡境を形成する山々であったことがうかがえます。もちろん、これは広く認識されていたというより、両標葉郷側が争論を有利に進め、その後の実効支配を確立するために付けた呼称であると思われます。