調査日誌(勉強中)69日目 -権現堂の在郷給人- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2021年5月20日。

 

さて、浪江町権現堂、

大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊

 

前回のブログではいわき市四家家資料の「福嶋県浜街道三郡連合清酒品■(破損。評ヵ)撰抜会出品人員並褒賞授与等級」という資料を紹介して、「老松」という銘柄の酒と醸造元の鈴木常松について述べました。加筆したとおり、郵便局長を務めた鈴木大久家の先祖に該当する人物で、常松は相馬藩士でした。

調査日誌(勉強中)59日目 -聞き取り調査成果報告② 鈴木大久・郵便局・裸参り-

 

ところで、鈴木常松のように、近世段階で相馬藩領の各地に居住した藩士のことを在郷給人と称します。今回は先行研究に則して在郷給人の存在形態を確認しつつ、権現堂村の在郷給人について明らかにしたいと思います。

在郷給人については相馬藩領内の各自治体史に掲載されています。『浪江町史』(浪江町教育委員会、1974年)にもいくつかの節に分かれて、町内の在郷給人の様相が記されています。ここでは佐藤彦一「相馬藩における「在郷給人制」と村落支配」(『福大史学』27、1879年)、同『相馬藩の在郷給人制について」(小林清治先生還暦記念会編『福島地方史の展開』、小林清治先生還暦記念会、1985年)に従って、在郷給人とは何者かについてまずは述べたいと思います。

 

近世=江戸時代の大きな特徴として、各大名のお膝元である城下町に藩士たちを集住させることがありました。相馬藩の場合も同様で、慶長17年(1612)に藩主・相馬利胤が小高から中村へと居住を遷すと、その城下町に家臣を集住させました。しかし、相馬藩の特徴として、家臣のうち知行地(領地)が28石以上の者に限って城下町へ移住させ、それ以下はそのまま在村するという政策を取りました。城下町に集まった家臣たちを「府下(ふもと)給人」と称し、元和年間には「家中」と呼ばれるようになり、そのまま在村した家臣を「在郷給人」と称するようになりました。

何となくですが、城下町に集められた家臣たちが「家中」と称されたことを踏まえると、在郷給人はちょっとのけ者にされてしまった感がなくもないのですが。。。😅

 

さて、江戸時代初期、相馬藩は幕府からの江戸城普請・銚子港普請・京都御所造営に駆り出されて、また、江戸と中村との参勤交代など財政が悪化していました。そこで慶長18年(1613)に在郷給人・寺社・職人から知行地(領地)を持つ者に役金を賦課することとしました。それに対して在郷給人たちは重い課役に対して連名で役金廃止を藩主に提出し、認められない場合は知行地(領地)を返納すると訴え出ました(元和三年在郷給人連訴事件)。結果、藩は役金の廃止はせず、多くの在郷給人は知行地(領地)を藩に返して百姓となっていきました。元和元年(1615)に884名いた在郷給人は、事件直後の人数は判然としないものの、明暦4年・万治元年(1658)段階で301名となっています。

 

その後、明暦4年・万治元年(1658)、4代藩主・相馬忠胤は301名の在郷給人に対して、知行安堵状と鎗を一本ずつ与えました。さらには、元和三年在郷給人連訴事件で百姓となった家でも、相馬家に代々仕えていた家の子孫も多く、忠胤は彼らに新田開発などをさせて改めて在郷給人として取り立てることとしました。そして、天和元年(1681)には在郷給人の数が1126名に達しました。

この明暦4年・万治元年(1658)に知行安堵状と鎗を与えられた在郷給人を古発給人(こはつ。本地給人とも)、家名の復活を果たした在郷給人を中切給人と称します。

なお、正徳元年(1711)以降に献金して知行地(領地)を受けた在郷給人を新発地給人(しんぱち)と呼び、安永9年(1780)からは新発地給人を郷士と称しました。

 

では、権現堂村にはどの程度の在郷給人が存在していたのでしょうか。近世末期に記された『奥相志』(『相馬市史 4 資料編1』、相馬市、1969年)の権現堂村の記述には「武夫」という項目があり、ここに権現堂村に住した在郷給人が確認できます。ここでは安永6年(1777)と文久2年(1862)の人物が記されています。

 

安永6年

・鎌田藤之助 19石 古発給人

・谷田次郎右衛門 20石 古発給人

・佐藤利右衛門 16石

・常盤三郎右衛門 13石

・半谷五左衛門 13石

・青田与一右衛門 8石

・八田市郎右衛門 「新家」

・渡部十郎左衛門 「新家」

 

文久2年

・新谷万右衛門 22石

・矢馳権左衛門 20石

・谷田次郎右衛門 20石

・佐藤数馬 16石

・牛来儀右衛門 13石

・半谷三郎左衛門 12石

・渡部甚左衛門 8石、代々公館を守る

・木幡八之丞 8石

・青田与一右衛門 8石

・島源五右衛門

・鎌田彦之丞

・谷田七兵衛 7石

・今村七之助 5石

・大原治兵衛 5石

・渡部六兵衛 4石

・今野源兵衛 4石

・志賀珉蔵 4石

・芋頭与太郎 2石

・鈴木孫右衛門 2石

・今村儀助 11石

・斎藤庄之助 2石

・上野十右衛門 1石

 

文久2年には権現堂村内に多くの在郷給人がいたことがうかがえます。これは献金によって在郷給人となったのでしょうか。また、安永6年には確認できて、文久2年には見えない家もあります(常盤三郎右衛門家・渡部十郎左衛門)。このあたりはどうなったのでしょうか。

引き続き、権現堂の在郷給人についても調べていきたいと思います😊