最近、
昔友人から教えてもらったひとつの話をよく思い出します。
「みんな良くなろうと思ってるのになんで・・・?」
「平和を願わない人なんていないのに、どうして・・・。」
と思うことがよくある。
その度にこの話を思い出します。
こういう視点を一つ持っているだけでも、
何かは違うかも!?
少々長いですが(´∀`)
~『世界平和』という山の登り方~
例えば、『世界平和』という山に登るとする。
その山に登ろうとしている同じ志の人は、全世界に沢山いる。
みんな、目指す所は一つです。
「世界が平和になるように!」
みんな、そう思って、頂上を目指します。
一人が向いている人は、一人で目指します。
でも、一人では不安だから、同じ志の仲間と登ります。
仲間がいたら、心強いから。
みんなで話ながら、頂上を目指します。
頂上を目指して歩いていると、違う団体に出会います。
その人達を見てみると、服装が違う。
目の色も、肌の色も違う。
平和の作り方の、思想も違う。
宗教も違う。
その団体と口論になります。
「あなたのその服装は、登山には邪道」
「登山には、その靴はふさわしくない」
「私たちの信じる登山の思想こそ正しい」
「私たちの神だけが、平和を与えてくれる」
「山登りの正しい方法はこれだ」
世界平和の山の頂上を目指していた二つの団体が、
小さなこだわり、正義の押しつけ、
方法の違い、宗教の違いで争う。
この二つの団体は、平和を目指していたのです。
なのに、争うのです。
争って、平和を壊すのです。
こだわりが争いを生むなら、
こだわりなんて、ない方がいいのです。
頂上にたどり着けるなら、
方法なんて、どうでもいい。
裸足で歩きたい人は、裸足で歩けばいいし、
裸で歩きたい人は、裸で歩けばいい。
歌いながら歩きたい人は、歌えばいいし、
黙々と寡黙に歩きたい人は、そうすればいい。
立ち止まって、景色が見たければ、見ればいいし、
歩くのに飽きたら、遊べばいい。
足が不自由で、歩いて登るのが不可能なら、
ヘリコプターで頂上を目指せばいいし、
お金で頂上行きの汽車の切符が買えるなら、
切符を買って汽車で行けばいい。
歩きたい人は、歩けばいい。
今は登りたくなければ、登らなければいい。
頂上への道は無数にあるし、
方法も無数にある。
自分で選んで、自分で進めばいい。
方法論はどうでもいい。
ましてや、小さなこだわりなんて、どうでもいい。
時に人は、登山用の靴の色の違いで争う。
赤がいいとか、黒がいいとか、
黄色がいいとか、青がいいとか・・・。
そんなことは、どうでもいいのにね。
そんなつまらない事で争って、平和を壊している。
それぞれの人が、それぞれの方法で、
好きに頂上を目指して、好きにすればいい。
そして、それぞれの方法でたどり着けた頂上で、
握手をして抱き合えたら、それでいい。
何故これができないか?
自分が正しいという、他人への正当性の押しつけです。
自分だけが正しいという、自分勝手なエゴです。
どうでもいいこだわりが、目的を壊すのです。
最終的に理屈だけでは、全ては語れない。
全ては理屈じゃないから。
争いも、憎しみも、嫉妬も、愛も、
全て、理屈じゃない。
でも、違いを認められるように、
自分自身の問題として、見つめたい。
問題は方法論ではなく、目的地にたどり着くこと。
自分に合った方法で、頂上を目指せば良いと思う。
こだわりが、目的を達成する事を邪魔をするなら、
こだわりごと捨ててしまえばいい。
『世界平和』の山の他にも、山は沢山ある。
自分に出来ることを、やっていこう。