親が帰った後、1人になった私はユースホステルに移動。
ホテル生活とは一転、2段ベッドの共同生活へ。
それまで、親と24時間ともに行動することはほとんどなかったのに、旅行の間の10日間、常にいっしょにいて、娘、通訳、運転手、ガイド、ツアーコンダクター、父のための喫煙所・母のためのトイレ探し人、母のボケへのつっこみ、父のオヤジギャグをさらっと流すフラッシャー、という役割を常にして、その2人が急にいなくなって、なんだか急にさみしくなった。
ダコタに行ってから、あまりホームシックらしいものはなかったのに、このときばかりは、無性にさみしくて、ガラにもなく、フィッシャーマンズ・ワーフで、ひとり、涙をながしたり。
それでも、せっかく、サンフランシスコ・西海岸にいるんだから、楽しまないと!!と、気持ちを入れ替える。
ある日は、ユースに泊まってる、日本人の人と、一緒にごはんを食べに行ったり、ひとりで、ジャパン・タウンや、美術館に行ったり、ちょっとずつ、浮上していく。
ある朝、ユースホステルのロビーに下りると、日本人らしきグループが。
どうやら、ここのユースに泊まっている初対面同士の日本人らしい。
「今日何するつもり?」ってな話をしてるみたいだった。私は、その日、自転車を借りて、サンフランシスコの対岸にある、サウサリートという半島に行こうと思ってる、っていうことをいうと、賛同者が2名!
このあと、ヨセミテ国立公園で、ボランティアに行く予定の、あいこと、バスでアメリカ横断計画遂行中の、ゆうき。
2人が、私の計画に乗ってきて、3人で出発!
まず、フィッシャーマンズ・ワーフで、自転車を借りる。それから、海を右手に見ながら、ゴールデンゲートブリッジをめざす。
ブリッジの周辺は、坂が多い。車じゃなくて、自転車のルートは、迂回したり、上がったり、下がったり。けっこう暑い日で、ひーひー言いながらも、無事、橋のむこう側へ。
サウサリートは、落ち着いた住宅街って感じで、ハーバーがあったり、向こう岸のサンフランシスコの町並みが見えたり、とってもステキなところ。
自転車でも行きやすいようになっていて、最終的に、フェリーの船着場にたどり着いて、そこから、フェリーで自転車ともども、フィッシャーマンズ・ワーフに帰ってくる、という仕組み。
とーってもいい天気で、海からの風が気持ちよくて、自転車で走ると、いろんな景色が見れて、あー、青春!
↓サウサリートのすてきなおうち。
↓海沿いのおうち。
フィッシャーマンズ・ワーフは、クラム・チャウダーが有名で、そこいらにたくさん出店が出てる。
3人が、それぞれ違う店で、サワー・ドウという、パンでできたボウルに入ったクラム・チャウダーを買って、どの店が一番おいしいか、食べくらべしたり。
正直なところ、ダコタには、まず日本人が少ないうえに、その少ない中でも、誰々ちゃんが好きとか嫌いとか、みにくいごたごたがあって、いっぱい日本人の嫌なところも見てしまった期間だったし、地元のアメリカ人は、アジア人なんて見たこともないような人たちが大多数で、なんとなく、壁を感じたりしていた。
でも、こうやって、ただ、いっしょにいて楽しい、同じ言葉で通じ合えることが、単純に、ほっとする。やっぱり、自分の言葉や文化、そして、自分の国の友達って、大事だなーと思ったりもしました。
ここ、サンフランシスコで、グレート・アメリカン・ジャーニーは終了。
いろんな思い出を胸に、ダコタへと帰っていきました。
こんなに、いろんな場所で、いろんなことを見て、いろんなことを経験したあと、ダコタに帰ると、その何もなさに、ほっとしたり(?)、がっかりしたり。
夏が終わると、ますます、脱・ダコタしたい!という気持ちが強くなっていきますが、そのあと、1年はダコタに残って、大学を卒業しなきゃ、前にすすめない。
そのうち、脱・ダコタへ向けてのカウントダウンを始めるまで、そう時間はかからなかったことは、想像に難くないでしょう・・・。
晴れて1年後、ダコタを脱出することになりますが、それもなかなか一筋縄ではいかず・・・・。
という話は、いつかまた機会があれば、お話しましょう。
夏の間に書き上げようと思いつつ、最初の勢いはどこへやら。約1ヶ月半にも渡って、たらたら書いてしまった、2002年夏の思い出、グレート・アメリカン・ジャーニーにおつきあいいただいて、どうもありがとうございました。
また、なんかおもしろいネタがあったら、シリーズ化したいです。
フツーのブログもまた、テキトーにアップしますので、よかったら、見に来てくださいねー。
2009年9月。
ちゃる。



