人が話してるなんだか特別感満載な話にムカムカする時ってある。
龍にはなしかけられたの、神様につたえられたの、
これは神聖幾何学を使った特別な箱なの…
レムリアからきたの
アトランティスの料理なの…
リーディングで先祖は城主って言われたの
過去生エジプトの王様なの
など
それは本当か確認できないことだったり…
そういう物語必要なの?
事実か確認できないものを堂々というなんて…
(ちなみに上の例は過去に私が心の奥で思っていたり公言していたものです)
その特別な物語を必要としてるなんて!自分はありのままで充分に素晴らしいのに!!!
なんて…
でも、
物語が必要な時ってある。
物語がもたらしてくれることって…
物語が未知の冒険を怖さからワクワクに変えることもできる。
物語が、真実だけでは傷ついてしまう自分を優しく庇いながらゆっくりと事実に向かうことに繋げてくれることもある。
今受け止められない痛みを優しく受け止めることもできる。
物語は時として、自分に都合の良い言い訳にもなってくれるし、自分を責める材料になることもある。
そう
どの物語をどう使うかは自分にかかっている。
自分にとって心易くワクワクをたくさん盛ってくる物語を採用するのも悪くない。
過去にワクワクしていた時に水を思い切り入れられて炎🔥を消された体験は、自分にワクワクの炎をつけるのをやめさせやすいのかもしれない。
もし他者のワクワクや物語に
いちいちケチをつけたくなるなら
ひょっとしたら過去のその体験によって得た恥ずかしい思いとか、悔しい思いとか、悲しい思いが影響してるのかもしれない。
そうしたら その自分に
『せっかくワクワクして前に進もうとしていたのに水刺されて悲しかったね。
その人の価値観を優先してその人を傷つけないことを選んだ自分がいたね。』
と様々な自分の気持ち、自分の思いに気がついて、『よく我慢したねー』なんて寄り添ってみる。
自分の内側を見て行く途中で物語が全て嫌になる時がある。全ての物語を消し去りたい時。
物語が、自分の本当の声を掻き消すことも多いから。
でもある程度それが終わったら
今度は物語の良さにも目を向けて
生きていけば良いと思う。
そして他者の物語にケチをつけたくなるほど必死に自分を律してきたのだと気がついて自分を労わって探すこともしても良いのかもしれない。
物語の中に埋没して物語をこの肉体使って楽しむのも私達のそして創造主が遊んでみたいことなのかもしれない…笑