命はいつか必ず絶える。人間に限らず、全ての生命がそうだ。

 

やんわりと、生と死について考えてみようと思う。

 

果たして「死」は「終焉」なのか?

まず気になるのはそこだ。本当に、死とは「終わること」を指すのだろうか。もしかしたら、生命は死んだあとに本当の世界を見たり旅が始まるのかもしれない。

死後の世界は生きている者には何もわからない。死んだ者にだけ与えられる「何か」である。

「生きること」は「正義」なのか?

そんなことだって誰にもわかりやしない。

いくら仮死状態や死の疑似体験をしても、本当の死後の世界はわからない。

ただ、自ら命を断つような人たちは、きっと死後の世界に平穏や気楽な何かを期待して行っているのだろう。

 

死後の世界や、輪廻転生。

私は何を信じているか?というと、しいて言うのならば輪廻転生だ。

命は無限に巡るものだと思っている節がある。何故なら、もし一つ一つの命が個々に管理されるような世界だとしたら"世界"はとっくにパンクしていると思うからだ。

命は目には見えない。しかし、たしかに「存在」しているのだから、容量がゼロなはずはない。

空気のように人には見えないだけで、何かしら世界を圧迫する要素はあると思っている。

 

生と死の話となると絡んでくるのが「神」の話。

私は宗教というものを一切信仰していないし信じていない。所謂無宗教だ。

しかし、神というものがもし存在するというのならば、それは外の世界に物理的に存在するのではない。自分の中に神は存在するだろう。

結局、どんな宗派だって同じように同じ神を崇めているのに、個人個人の捉え方が違うから宗教戦争が起こるんじゃないか。

つまり、いくらある程度概念が固定化された物理的な神が存在していたとしても、それはただの入れ物で、入れ物の中に居る本物の神とは、自分自身の思考や理想、妄想そのものなのだ。

何を信じるかは自分次第であり、結局信仰とは妄想と思想が過激になったものに過ぎない。

 

また、私は俗にいうスピリチュアリティを好まない。

それも結局大袈裟に捉えてしまえば宗教と同じだからだ。

別に宗教の存在を否定はしない。個人で楽しむ分には好きにすればいいと私は思う。しかし、何がいけないかというと所謂「押し付け」なんだ。

漫画だってアニメだってそうじゃないか。好きなものは好きでいいけれど、押し付けは良くない行為だ。

 

話が二転三転しているが、そんなことはどうでもいい。

 

 

死刑囚238人最期の言葉という本が非常に面白かったので、ぜひともオススメしたい。

全くシリアスなものではない。

科学者は皆口を揃えて「宇宙は広い」だとか「宇宙の果ては~」だとか「ブラックホール」だとか、くだらない話をするじゃないか。

そんな話には微塵も興味が無い。宇宙の果てなんて、わからんもんはわからんのだ。

 

私にはへんてこな仮説がある。

宇宙と言うのはそもそも物凄く小さなもので、地球なんてゴミ屑みたいなものなのかもしれない。

宇宙なんて、もしかしたら別の大きな生物の小さなおもちゃ箱の中に入っているようなものなのかもしれない。

 

なので、私は常にこう思うことにしている。

「宇宙の果てなんてものはおもちゃ箱の壁で、我々はどこかの巨大生物のおもちゃ箱の中で飼われているものなのかもしれない」と。

宇宙は四角く、果てなど壁でしかないのだ。

いや、四角いとは限らない。

 

我々の存在はとてつもなくちっぽけで、宇宙なんてものよりも果てしなく大きな世界というものの小さな小箱の中。

 

そう考えたほうが、面白いと思っている。

 

視野を広げて考えろ。何事にも言える。

つらくなったときは視野を広げてみるといい。自分が小さなことで悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなる。

例えば、小さな範囲で言うのならば「この国」でなく「世界」という規模で考える。

なに、この国に居るのが嫌ならカナダにでも引っ越せばいい、と。

 

人生はやり直しが効かないかもしれない。しかし、新たに別の人生を築くことは可能だ。

私は将来海外で余生を過ごしたいと思っている。この国に居るとつらいことが多すぎるからだ。

何もわからなくていい。いや、わからないからこそ楽しめるのではないか。

 

 

あと2か月で18歳になる飼い猫が、今日も幸せそうな顔をして寝ている。あと2年だな。