1945年8月9日。
長崎で被爆され、自らも重傷を負いながら、けが人の治療にあたられ、その数年後に自らもお亡くなりになられた、長崎医科大学の先生、それが永井隆博士です。
その彼が、子どもに向けて遺した詩が、「いとし子よ」です。
全部転載できないのが残念ですが、下記に引用させていただきました。
(略したところも含めて、ネットで調べればいっぱい出てきます)
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「(前略)
そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?
――原子爆弾。・・・いいえ。それは原子の塊である。
そなたの母を殺すために原子が浦上へやって来たわけではない。
そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。
戦争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこんな大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。
そうして、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、――戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしよう!
そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくなってくるのである。
どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?
私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。…
わが子よ!
憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。
憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。
これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。
しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。
日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出ないとも限らない。
そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。
もしも日本が再武装するような事態になったら、そのときこそ
敵が攻め寄せたとき、武器がなかったら、みすみす皆殺しにされてしまうではないか?――という人が多いだろう。
しかし、武器を持っている方が果たして生き残るであろうか?
武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るであろうか?・・・
狼は鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。
ところがハトは、何ひとつ武器を持っていない。
そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。・・・(後略)」
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今の時代においても、否、今の時代だからこそ、もっと見直されてよい詩ではないでしょうか。
キリスト教徒の方なので、考えには賛否あるかもしれませんが、人の愚かさ、悲しさ、虚しさを、実に鋭く描いています。
そして、単に「戦争はいけません」「原爆はいけません」という御託だけでなく、それへの批判にも、反論を用意されているのが素晴らしいです。
もちろん、それでもなお「きれいごと」だ、という批判はあるでしょう。それはたしかに、そうなのかもしれません。
しかし私は、「きれいごと」を見失い、現実のみに堕した世の中には、希望も未来もないし、もはや生きていく価値などないとさえ思っています。そして、法律も、(むろん現実と全く乖離したものとしては存在できないでしょうけれども、だからといって)そのような現実を跡付けるだけのものとなってしまっては、もはや存在意義の大半を失ってしまうのではないかと思います。
憲法も、労働法も、そうなのではないでしょうか。