日本語表現
なまず ~゜・_・゜~ ごときが
司馬遼太郎対談集2 日本語の本質
対談者:大岡信、丸谷才一、赤尾兜子、大野晋、徳川宗賢、桑原武夫
「理屈が十分喋れて、しかも感情表現が豊かな日本語・・・
そこに持っていくのはわれわれ生きている者の義務じゃないでしょうか。」
と1971年、桑原武夫は対談を結んでいる。
政治や社会科学の言語は、日常お酒を飲んだり恋愛したりするときの
言語と違って、抽象レベル高いもの、にもかかわらず、人を感傷的に
ではなく、知的に動かすような構造をまだ持っていないと言い。
例えば新聞の社説など、大勢の人に訴える言葉をもっと工夫すべきである
と司遼さんは同調する。
また、日本には雄弁家はいない。これは論理学や修辞学が発達しなかった
ことによると。
国会討論は退化しており問題外だが、大新聞の社説、50年経過して
いるがどうだろうか。
昭和30年前後に文章日本語が共通のものになった。
そのあたりから一般庶民が考えていること、見聞したことを伝える
ための日本語は7、8合目にまできているのではないか。
余談になるが、以前本書を読んで閑吟集に今に続く日本人の表現が
みられるとの知り、閑吟集の「何せうぞ くすんで 一期は夢よ
ただ狂へ」、「しゃとしたこそ 人は好けれ」になるほどと思った。
また赤尾兜子との対談での司馬さんの子規愛に感化され、なまずも
好きになった。
子規、漱石の現代日本語化への貢献度はいうまでもない。