百合子、ダスヴィダーニヤ | 今日も定時ダッシュ

百合子、ダスヴィダーニヤ

 この映画の監督は、成人映画をメインに活動してきた浜野佐知という女性ですが、ここ10年ほどは一般映画に活動の幅を広げ、いずれもこの人にしかモノにできないような独特の映画を撮っています。

 とりあえずこの映画の感想を書くにあたって、成人映画の感想を以前に書いておいて良かった。ここから話を始めたら、えらいこと長くなりそう。

 まずこの映画のスゴいのは、自主映画ゆえに製作費も十分賄えない中、よくぞここまで現代的な要素を排除し切ったことであります。建物の古風かつモダンな外観や凝った意匠の内装、そして何よりヒロインの百合子が着ている幾何学的でカラフルな着物が非常に目に楽しい。大体自主映画ってそこらへんにある風景を「オレの心象風景」みたいに撮るイメージがあって、それはそれで良いこともあるのだけれど、大正時代の映画を撮る上でここまで妥協せずにロケハンするところがベテランらしい。目に映るものだけでも十分にモトが取れた感じがする。

 さて。この映画を観る際に覚悟して欲しいのは、この映画のセリフが尋常でなく多く、しかも現代に馴染みのない単語で登場人物の心情や思想が会話されるので、ウッカリ気を抜くと何が何やらな状態になってしまいます。この洪水のようなセリフで思い当たるのが、原田知世版の「時をかける少女」のDVDで大林監督が高柳良一のダイコン演技をして「古典劇では心情や状況をセリフとして表現している流儀があり、彼はそのタイプの役者」と評していた事で、「百合子、ダスヴィダーニヤ」はそういうタイプの映画なのだと思う。実際わかりませんが。ただ、眼力を最大にして映像を見つめ、耳の穴かっぽじいてセリフを追って行くと、自分が本当に映画の中にトリップした錯覚に陥ります。

 登場人物が少ない映画だけれど、全員異常なまでにキャラクターが濃くて実に見ものでした。中でも大杉蓮が演じる百合子の夫君のキャラクターが特に濃い。そして、ここが重要なのだが、大杉蓮や吉行和子といった大ベテランを向こうに張り、百合子役の一十三十一(ひとみとい)が全く互角の存在感を醸しておりました。この映画の中の宮本百合子という女性は、奔放というよりは極度にのめり込むタイプなのだろう。ついでにくっついて行ったロシア留学で芳子をさしおいて共産主義にハマってしまうあたり、だからこそ立派な仕事も残すのだろうが、夫や、後の芳子自身といった彼女に振り回され、取り残される人間も出て来てしまうのだろう。百合子が単に奔放なだけの女だったら、相手もそこまで彼女に入れ込まないだろうという気がする。芳子役の菜葉菜(なはな)は映画の冒頭ではかわいらしさが目について違和感がありましたが、終いには見事な男っぷりでした。

 浜野監督はこの映画の観客として、やっぱり女性層を念頭に置いたのだろう。百合子が劇中で自分の社会に対する欲望や女の社会的な限界について述べる内容は、当時は一部のインテリだけが持ちうる野望なのだろうが、現代では、ごく一般の女性が抱くものだと思う。男の自分としては頭では分かれども実感が伴わない部分である。けれどもそういった主張的な部分を差っ引いても「百合子、ダスヴィダーニヤ」は非常に見所の多い面白い映画でした。

 自分はこの映画を、浜野監督の舞台挨拶のある初日に見て、パンフレットにサインして頂いたのだが、その時にこの映画が面白かったことを述べたものの、後から「あ、そいえば的場ちせ問題について聞くべきだった!」ということに気付いて、今ちょっと後悔している。