カルマも前世と同様、基本的には語る必要はないでしょう。しかし、保険をうちます。

個々の魂の歴史とともにカルマ(魂に染み付いた価値観)をさかのぼると、我々は原初よりそれを有していた(る)ことになります。現世のカルマは前世より、前世のカルマはその前の前世より、……というようにさかのぼると、原初にもカルマがありますよね? それはなぜか。

我々のこの世界は、本来【ゼロ】であるものを、+極と-極に分かつことをするかのようにして、生じたものらしいです。今も総和はゼロなのかしら? 

とにかく、我々はそのようにして発生しているようです。


分かつ前のゼロ。そこには「意味」すらありませんでした。しかし、+と-は我々に「意味(価値)」を付随させることを避けられませんでした。ゼロが無なら、両極は有。有とは「意味」。

こうして我々は「意味」を持つことになりました。そしてそれが流転し、今もなお続いています。


ゼロとは究極の愛のことです。それは、キリスト者に代表される祈りを例にするとわかりやすいです。祈りとは、自身をかえりみず、誰かのため、なにかのために願う行為です。そこに自身の「意味」は存在しません。自らの意味性を捨て、心が他者へむけられつくしているからです。それを「無私」と呼びます。つまり、私がゼロになること、それが祈りです。そしてその心は、愛。私という意味が消え去り、他者へむけられた心のみがある、ゼロという愛。究極の無私の愛。


極にわかれた我々は、その究極の愛というゼロへの帰還を目指しています。


存在するために、意味の所有を避けられなかった我々は、カルマを背負いました。そして、有、だからこそゼロをはっきり知ることができるようにもなりました。故郷を離れ、故郷のよさを知るようなものです。祈りはそこへの帰還のひとつの道です。無私とは、自己防衛の消えた、100%の信頼という我々の本質への回帰のことです。私という意味が消えた、祈りそのものの愛というゼロ。


……何いいたいんだかわかんなくなった(笑)。ま、カルマってゼロを再発見するためのものですよー、ってこと。悪ではないの。


※文中の「意味」のニュアンスは、「本来何一つ不可分であるはずのこの宇宙で、我々の認識が切り取りたい、またはつい切り取ってしまうような、個性」、といった感じです。