次に、「信頼」の事例として、車の運転、について書きます。

車の運転。ここでも、「意識的・無意識的信頼」がなければ、我々は車を運転できません。「対向車がセンターラインを越えてこないこと」「皆が信号を守りあうこと」「道路に飛び出さないこと」などなど、「ほかの人が交通ルールを守ってくれるはず」という「信頼」なしには、我々は運転できない、というか、しませんよね? 危険だらけなら、誰も運転しません。「ルールを守りあう」「ルールを守る」という、意識的・無意識的な「信頼」があってはじめて、運転できるのです。ここにも、意識しようとしまいと、「信頼」が根本にあるのです。


“我々は、意識的にも無意識的にも、「信頼」がなければ車の運転はできない”


ここまでは、車の運転の事例でしたが、ほかにも事例を……といいたいですが、社会生活上の事例はいくらでもあるわけでして、すべて語れません。人生全部かけても、無理です。……しかし、いくつかは語りましょう。

外を歩くこと。これは、「もしもミサイルが落ちてきたら……」、「もしも道路に落とし穴があったら……」、「もしも狙撃されたら……」、などという、「不信」の状態では、することは不可能です。やはり、意識的・無意識的「信頼」があってこそ、外出できます。

睡眠。「もしも寝てる間に……」などと考えていたら、寝れません。……で、この「睡眠」って、重要なんです。私たちは睡眠なしに生きることはできません。そしてその睡眠時、「無防備」です。いつでも攻撃できます。この「無防備」って、最大クラスの「信頼」なんです。自己防衛はほとんどゼロ。もちろん、家の防犯対策など、「不信」はありますが、でも「睡眠」とは基本的に、「他者や世界に対する、人の本来的に持っている信頼」のあらわれなのではないでしょうか?

やはり私は、この世界の根本には、「信頼」が横たわっているように思うのです。

我々は、「意識的・無意識的信頼」なしには、なにひとつ行動できません。生まれたときもそうです。無防備で生まれています。信頼そのもので生まれています。

事例はほかにもありますが、それを「信頼」というワードを元に考えると、いかに我々が赤子のような「信頼」の上に生きているのかが、わかると思います。


そして、この「信頼」を脅かしたり、裏切ることを、我々は、「罪」、と呼んでいるのではないでしょうか?