同じようにして、「人」、を「主体」にして、「生まれた」「死んだ」、について考えていきます。


「人が生まれた」 → 生まれるという経験をし終えた人がいる

「人が死んだ」  →  死ぬという経験をし終えた人がいる


これらが、それぞれの背景には示されています。


「人が生まれた」。ここには、生まれるという経験をし終え、生きはじめた人、「人」という「主体」があります(あとで、生まれる以前、受精する以前にも「主体」が必要であることも述べるつもりです)。


……本題に入ります。


「人が死んだ」。ここも同じように、死ぬという経験をし終えた人がいる、それが背景にあると考えるのが自然な流れでしょう。……ならば。


「死ぬという経験をし終えた人」、とは、つまり、「ずでに死んだ人」であって、「その主体」が存在しなければならないのではないでしょうか?


経験には必ず「主体」があるはずです。そして、経験し終えた「主体」、それもあるはずです。


そしてその「主体」とは、「すでに死んだ人」でしかあり得ません。なぜなら、“すでにもう”死を経験し終えているからです。


※端的に表現すると、

 「生きてる人は死ねない。死んだら生きてないから。じゃあ誰が死んだ? それは、もう、すでに、死んだ人、だ」

 になります……(笑)。