「ナニカ」という主体が死後にも残ると書きましたよね。


では、その「ナニカ」を滅することを考えてください。


するとそこにも、「滅することをし終えたナニカ2」という経験主体が残らなければなりません。


では、その「ナニカ2」を滅すると、「ナニカ3」が、……というように、いつまでも、永遠に、経験主体は存在し続けます。


よって。



【「ナニカ」とは、滅することのできない永遠の存在であり、私たちもまた、永遠の存在なのです】











〝存在は生まれることもなく、滅することもなく、永遠である〟 ( パルメニデス)




―おわり―

まず、私の願いを書きます。それは、

「人が霊性をとりもどし、肉体だけの存在ではないことを知ってほしい。しかし、精神世界系にはおぼれてほしくない。人間として、この現実を、思いあって、しっかり生きる。つまり、より善く生きるという、人間としての美学を取り戻してほしい。あくまでも、あの世はあっても、この世を大事にしてほしい」

というものです。そして、「平和な愛ある世界」、それをただ望んでいることも、ここに記します。


なお、私はこのブログ以外で、ネット上では一切発言しません。また、現実世界でも、私が書いた、書かせた、などという発言も、一切しません(でも、伴侶ができたら、伴侶には伝えます)。


そして私を探さないでください。私は自身の未来を探している途上なのです。やるべきことがあります。


私はだめだめな人間です。恥ばかりの人生です。なのでこのブログは「私自身の表現」ではなく「私の一部分」にすぎません。私はただの、ガキです。


また、私のかけた保険だけでは防げない副作用も出ると思います。そのときは流動し、みなで言葉と論を駆使しましょう。私ひとりでは、もう限界です。


更新する可能性あるので、それと改竄される可能性あるので、保存、お願いします。





では、グッドバイ。苦しかったよ。




日本国民である前に、世界市民の一人である、一人の男より、愛をこめて。

……愛って、わかんないんだ、まだ。むずいよね、愛って。


それを知る、思い出すのが、人生なのかな。


そして「ゆるし」。これもきっと「愛」の一側面なんだろうな。



愛って、むずかしいと思う。

①願う

②もらう

③感謝する

④感謝すると、さらに願いがかないやすくなり、また①に戻り、願う



の繰り返しです。


大事なのは感謝です。


願いと感謝が通じやすいのが、氏神様をはじめとする神社らしいです。



※信じるか信じないかは、自己責任です。

「生まれ変わって来世でがんばる」


そういって、自殺した少年がいたはずです。このことから危険性を述べている方がおられたので、調べてください。




我々はこの現世を一生懸命に生きるしかありません。



精神世界は、鵜呑みにしたらだめな、自己責任の最たる例の世界です。鵜呑みは避けてください。




そして、曲解はさけるように。曲解が、この少年の悲劇を招いています。




正見、と、正読、が大事だと思います。

6の8より。



「あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです」



※当時は奴隷が存在していたため、奴隷という例えが使われています。パウロが現代に生きてたら、違う例えを用いたでしょう。気を悪くされないように。

人はミスするよ。


……たった一回のミスで、その先の人生終わらせていい? よくないよね?


やりなおせる。そう思いあうために、神は人間に「ゆるし」を授けました。


許せる範囲は、許して、未来にともにいきましょう。


でも、なんでも許すのは、愛ではないきがします。