日本橋から歩き始めて4日目、今日は東戸塚駅からスタートです

東戸塚駅の東口をでると、オーロラモールの隣りに、いきなり古墳のような小高い山が現れ驚きます



「白旗山公園」と書かれた階段を登ると、鬱蒼とした不気味な広場があるだけでした


富士講の石碑があるので、かつては富士山を眺めに来る人で賑わったのかもしれません


【品濃 白幡神社】

公園広場から整備されていない細い道を下ると駅とは反対側の山の斜面に「白旗神社」がありました

白旗神社の名前は源氏と平家が争った際に両者を区別するために

源氏が白旗、平家が赤旗をたてていたことに由来します

そういえば、小学校のころ運動会の時に赤白帽を被って騎馬戦とかやってましたね…

騎馬戦て源平合戦のことだったんですかね驚き



全国に源氏の武将を祀る「白旗神社」は80余社ありますが、ここは「源義経公」をお祀りしている8社のうちの一つです

康元元年(1256年)創建といわれていますが、大正13年の関東大震災で倒壊し、さらに平成19年(2007年)に焼失、平成24年(2012年)に御社殿が再建されています




何故かばらばらの造りの石祠が背の順に並んでいます

かなり古そうなものもあります


社殿脇の階段を登る2つの鳥居と赤と青銅色のお社がならんでいます

どんな神様をお祀りしているのかは、全くわかりません

社祠が規則正しく並んでいることから、この付近の開発時に地元にあったものが寄せ集められたのかもしれませんね


【品濃一里塚】

前回この辺りは歩きましたが、真っ暗でしたので一回権太坂までもどってから再スタートすることにしました

信濃一里塚は、道の両側に当時の状態の一里塚を完全な形で残している神奈川県唯一の一里塚です

前回は暗くて崖にしか見えませんでしたが、たしかによく見ると塚にもみえます

思ったより巨大でしたが、平地の一里塚とは違いもともとの地形を利用しているようです

日本橋から9番目の一里塚なので、9 ✕  3.9km=35.1kmぐらいのところです


【投げ込み塚碑】

保土ケ谷方面から権太坂を登りきった辺りに「投げ込み塚碑」があるので、そこまでいってみました

たまたま当地区の開発中に大量の白骨が発見され騒ぎとなったそうです

調査の結果、権太坂で行倒れた旅人の遺骸を投げ込んでいた井戸があったことがわかりました


川崎宿近くの八丁畷にあった無縁塚を思い出しました


当時は今のような火葬施設もないでしょうから致し方ないことです



【信濃坂上】

権太坂から再び「焼餅坂」を通って戸塚宿をめざして歩きはじめました

旧東海道らしい道幅で果樹園の中の気持ちの良い道を進むと信濃坂上にでます

昔であれば険しい信濃坂をここから下るわけですが…

【信濃坂の陸橋】

今は環状2号線にかかる立派な陸橋をくだるだけです

【提灯立場跡】

立場とは宿間の距離が遠い場合や峠などに設けられた茶屋などの休憩施設です

信濃坂をこれから登る人や下って来た人が一息ついたのでしょう

【民家】

一般の方のお宅だと思いますが武家屋敷のような古い門が残っています

【道端に咲いていた紫陽花】

桜の花の時季に歩きはじめましたが、もう紫陽花の季節になりました

まだ、江戸時代の旅人の1日分もあるいてないのに…

しばらくなにもない道を歩き、やがて1号線に合流しました

【王子神社】

この辺りの神社仏閣は旧東海道ルートから外れた所にあるので比較的近そうな「王子神社」を参拝することにしました

御祭神は護良親王です

後醍醐天皇の皇子として生まれ、鎌倉幕府の倒幕の功績により征夷大将軍となりましたが、その後に父親である後醍醐天皇に疎まれた結果、鎌倉東光寺に幽閉されて殺害されました

なんとなく義経に似たストーリーですね

【王子神社境内】

国道1号線のすき家を目印に小道を登っていくと道に迷ってしまったかのようになんの表示もありません

引き返そうと思った所に、立派な杉の木と鳥居が見えました

真っ直ぐ長い境内への参道はどこか神秘的です

王子神社の境内の下には護良親王の御首が埋葬されているといわれています

【首洗いの井】

近くには護良親王の御首を密かに持ち出した側女が洗ったとされる井戸があります

【旧鎌倉ハム冷蔵庫】

古い煉瓦作りの建物がありました

今でも有名な鎌倉ハムの冷蔵庫だったそうです

この辺りは鎌倉ハムの発祥の地で、イギリス人のウイリアム•カーチスという人が、斉藤家や益田家に製造方法を伝授したことがはじまりだそうです

斉藤ハムのお店は隣で営業中でした



舞岡川を越えて程なくしてイオンが見えてきました

ここまでコンビニも含めてお店がほとんどなく、一息つきます

江戸方見附跡はこのイオンの前の歩道に沿って建っています

権太坂手前の保土ケ谷宿の上方見附から、ようやく戸塚宿へたどりつきました



近くの八幡神社への道標

参道とかかれていたのでしょうか?参から下はアスファルトで埋もれてしまっています

【かまくら道道標】

妙秀寺にある「 かまくら道道標」

広重の東海道五拾三次にも出てくる大橋のたもとにあった道標を移設したものといわれています

「かまくらみち」と掘られているようにみえます

【吉田一里塚】

日本橋から10番目の一里塚

およそ50kmのところまできました

江戸時代の人はだいたい1日でこの先の戸塚宿か、藤沢宿まで歩いたそうです

トレーニングしてるわけでもないのにすごいですね

【木野間稲荷】

珍しいピンクのお稲荷様です

【大橋】

こちらが浮世絵で有名な、大橋です

妙秀寺のかまくら道道標もこの辺りにあったはずです

【広重の浮世絵】

橋には浮世絵がかざられていました


絵では松が両脇に植えられていますが、今はどこにもありません


【淡島大明神道標】

淡島大明神参拝の道標


【伊東医院】

大正時代の建物だそうです

今代々跡を継いできた院長先生により今も営業中です


【矢部町問屋場跡】

宿場に必ずある問屋場

公用で旅をする武士や旅人の宿や人馬の手配などを担当したり、幕府の書状を次の宿へ届けるなどの継飛脚業務をしていた所です

戸塚宿には3ケ所の問屋場があり、交代で役目を務め毎月1日から4日の間、業務にあたりました

【戸塚駅 大踏切デッキ】

2014年に完成した、「開かずの踏み切り」にかけられたデッキ

【戸塚駅 開かずの踏切跡】

踏切の一部はまだ線路脇に遺構の様に残されています


【内田本陣跡】

戸塚宿に2つあった本陣のうちの1つです

現存するものは有りません


【脇本陣跡】

本陣に差し支えが生じた時に利用する脇本陣です

諸式は全て本陣と同じですが大名などの宿泊がない場合は一般旅客を泊めることができたそうです

戸塚宿には3軒ありました


【きじま本陣】

東海道の本陣と関わりはありませんが、本陣をインスパイアした食事処です
 
地元の方の法要などでよく利用されるようです

【澤邊本陣跡】

もう一つの本陣跡です

もともと戸塚は宿ではなく、保土ケ谷宿から藤沢宿まで行く旅人に、「 藤沢までは、もう一山越えなければいので暗くなったら危険でっせ」とだまくらかして客引きして発展したらしいです

本陣創設時の当主、澤邊宗三は幕府に強く働きかけて戸塚宿を認めさせた功労者です

明治天皇の東行の際の行在所にもなりました

敷地の一角に羽黒神社があります


《❷へ続く》