お正月はテレビのBSで歌舞伎関連の特別番組がいくつか放送されていました。

中村芝翫襲名のドキュメントや、中村勘九郎さん七之助さん鶴松さんのバラエティー番組。

 

そして本日のタイトルでもあります『映画 中村勘三郎』。勘三郎襲名からのドキュメントです。実は私は録画して後から見ているのですが、途中で見るのを止めてしまったまま、まだ最後まで見れずにいます。体調が優れなくなってきたあたりからちょっと…見るのが辛くてね。

 

最初は平成中村座初のニューヨーク公演の大成功から。

 

それから2005年、中村勘三郎襲名公演

初日の楽屋に歴代の付き人さんが揃って挨拶にきて、ホロリと涙する姿。

襲名興行で全国に残された古い芝居小屋を巡り、地元の方々と交流する様子。

先代からの古いお弟子さんが幹部昇進し、晴れの舞台となる予定だったその矢先に癌で亡くなり、その写真を懐に抱き努めた口上。

 

そのあと印象的だったのはその後中村座で上演された「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」。

お稽古場での様子のビリビリに張り詰めた緊張感。おそらく六段目で源六を演じる片岡亀蔵さんに勘平を演じる勘三郎さんが演技のダメだしをしているところ。真面目にやっているだけではだめ。中途半端が許されない高い高い次元の要求。見ているだけで胃が痛くなりそうなお稽古風景です。歌舞伎は、その座長が演出家でもあるといいますが、自分の演技だけではない、全体に目を行き届かせなきゃいけないんですね。気の張り方、並大抵のことではないでしょう。

 

「昔、忠臣蔵っていうと嫌でねぇ。だから忠臣蔵っていうとゾーーーっとしたくらい。大変なの。怖いのよぉ、あれぇ。除幕からずーーっと食事する間も無い。」という小山三さん。大序から判官やって、勘平やって道行やって、その間に四段目やって、七段目、十一段目、小山三さん止まらない。

勘平切腹の前、くすねた縞の財布が、自分が義父を殺して奪ったものだと懐の中でこっそり確認する場面の稽古。義太夫の太夫さんと呼吸の確認を行う繊細な作業。

いつも当たり前のように楽しく見ている舞台は、役者や演奏方職人達の血の滲むような鍛錬と気付きにより磨き上げられた芸術だったのだと今更ながらにありがたく思った次第。

 

その頃の勘三郎さん、喉にポリープができたと服薬しております。「体は全然疲れていなくても、どこかに勤続疲労が出てきたんだろうね。6ヶ月間ぶっ続けだったから。」

うーーん。…歌舞伎役者の労働のあり方って、酷。うーむ。会社が押し付けているわけではないだろうから、自分で上手に体をいたわって欲しいものです。

衣装付きでの通し稽古で若狭之助を演じる勘九郎さんへのダメだし。判官切腹の場では判官の拵えのまま芝居を止めて力弥を実演指導。←由良之助はまだか?の場面。

 

「皆さんに離れられたら私はお終いなんですよ。もし私が怠けたらこのお客さん達はいなくなるわけですよね。いつも新鮮なものを見せ続けなければいけないという使命感はありますよね。」

という言葉通り、ずーーーっと全力疾走な生き様。

 

そして2010年10月。

このあたりから様子がおかしい…。

大阪城をバックに中村座の「夏祭」。舞台はエネルギッシュに演じるけれど、それ以外の場面での目が虚ろ…。口角が下がって表情がない…。検査結果は、ホルモンの影響で蛋白が足りなく、貧血気味とか。疲れとストレスかな、って。いつもと違い、笑ってちゃかせる雰囲気でもない勘三郎さんに周囲の役者さんも言葉を失う。その後入院されるんですな…。難治性の難聴、うつ症状。

 

そのころ起こった東日本大震災。

「頑張ろう日本、とか書いてあるんだけど、何を頑張りゃいいの?今の病気だって頑張って治せるものでもない。」

 

もうね。

私はここでこの映画、胸を締め付けられるような気持ちになり、続きを見られません。

勘三郎さんの人生は、このあと何年だったか。全力疾走だった日々から突然急勾配の坂道を転げ落ちるような…。

自分の踊りの師匠にも同じような時期があったんですねぇ。

病気から徐々に体調を崩した頃、稽古で弟子には見せまいと勤めても、自分の体への不安をその表情に隠しきれなかった時期。幸い自分の師匠は心臓の手術をして、完全に元通りの体力ではなくとも復調しましたが…。

 

うちの師匠にも昔ありました。ぎっくり腰になりとても踊れる状態じゃ無かった時に舞台の仕事が入っていました。「代役を頼めないの?」とおかみさんに聞いてみました。おかみさんの答えは「それでも踊るのが舞踊家です。」もちろん、一番心配しているのがおかみさんなんですが、壮絶だと思いました。

 

なんとゆーか…たまりませんな。

いずれは続きを見ると思いますが。いまのところはここまでで。