《Dimash Show 》2021.12.26

 

ハバールテレビ 公式YouTube ロシア語版 ↓

 

ハバールテレビ 公式YouTube カザフ語版 ↓

 

 

0:12

Asanali Ashimov(アサナリ・アシモフ:旧ソ連名誉アーティスト):

(バタ)君の今ある成績と栄誉を大事にして欲しい。

未来は明るく、ご家族が幸福で仲良くありますように

 

Lyubov Uspenskaya(リュボフ・ウスペンスカヤ) :

勿論Dimashと会ってみたいわね。

彼の生歌を聴いてみたいの。

これにはとても興味があるわ。

彼にはあの卓越した歌唱の才能があるもの。

 

Ulikpan Zholdasov(ウルクパン・ジョルダソフ):

私達はコンサートの開演前にバタの祈祷を行い、コンサートが順調に行くように祈りました。

私達カザフ族はバタの祝福の中で育ってきましたのでね。

 

Nurlan Onerbaev(ヌルラン・オネルバエフ):

30年間この<Qaraǵym-aı> を私が歌ってきました。

皆さんもご存じの通り、Dimashがこの曲を歌ったことで、彼はこの曲に2度目の生命を吹き込んでくれました。

 

Bibigul Tulegenova(ビビグル・トゥレゲノワ:旧ソ連人民アーティスト):

当時、ある方が私にこうおっしゃいました。

ビビグリapa、Slavic Bazaarに参加する準備をしている子がいるので、あなたのバタの祝福を頂きたいのです。

私は「いいわよ。喜んで彼の為に祝福の祈祷をしますよ」と言いましたの。

 

Lev Leshchenko(レフ・レスチェンコ):

Dimashはカザフスタンの大切な息子だよ。

これは彼がカザフ語の曲を感情豊かに歌っていることでもわかるよね。

 

(ナレーション)

バタとは、カザフスタンの先祖より「良い言葉はその幸運を半分はもたらしてくれる」と言われてきた。

「祝福を贈ることができる男はその運気が悪いはずがない。器量足らずで他人への祝福ができない男は成功することは難しい」

 

代々子供に教えてきたこと “むやみに敵を多く作ってはいけない、できるだけ他人からの祝福や支持を得られるように努力すべき”

 

バタは彼らの生活していく上での特別な意義のあるものなのだ。

これは人と人との間のよき行いを表すだけでなく、バタはまた 人々を正直であり、慈悲深く、知恵深く、またそのスピーチ力を鍛えるものでもあるのだ。

 これはまた民族を永らえるものでもあり、我々の民族文化教育への啓蒙でもあるのだ。

よく見てみると、今の我々には様々な重要なシーンでバタの祝福の儀式が行われていることがわかるであろう。

 

本日のドキュメンタリーでは、我々の芸術家である先輩方から贈られたDimashへの真摯な祝福について語る。

 

<Dimash Show BATA>

 

Berik Zhysip(ベリク・ジュシプ:民俗学者):カザフ族にとって、バタは民族間の共通認識として非常に大切なものなのです。

バタには 公の形式と、内面の形式があります。

公の形式のものとは、公衆の面前で両手の手のひらを上に向けて広げ、大きな声で祝福の祈祷をするものです。

そして内面の形式のものは、心の中で常に祈りを捧げることです。

又は特別な時に祈祷の形で祝福を与える必要がある場合にも。

 

(ナレーション)

学者たちの研究によれば、バタは人生の哲学を蓄積したものだそうだ。

言語に熟知した先祖たちが このバタの儀式に特に関心を寄せており、彼らはその祈祷による祝福の一言一句が実現できるものと信じてそれを口にするのである。

 

バタは、一般的には年長者、知恵ある者、威厳のある老人などがそれを念じる。

若者たちは 知恵ある老人や白い頭巾を纏っている祖母たちの祝福を受けたいと願っているものだ。

“あなたの人生を祝福する、月明かりのように透き通り、星のように輝くことを!”

“前途洋々、敵だった者と友になれるよう” というような言葉で。

このような美しい祝福は美しい生活の始まりとなるのだ。

年長者による祝福、教示を聴き、先輩たちのバタを得る為に一所懸命に生活し 学ぶことは品格を教える一種のやり方なのだ。

 

Bibigul Tulegenova(ビビグル・トゥレゲノワ:旧ソ連人民アーティスト):記憶が間違っていなければ、あれは<自由な翼> 青年歌手コンテストでした。

その当時の演出家の方が私におっしゃるには「ビビグルapa、Slavic Bazaarに参加する準備をしている子がいるので、あなたのバタの祝福を頂きたいのです」と。

私は「いいわよ。喜んで彼の為に祝福の祈祷をしますよ」と言いましたの。

 

あの時はちょうど夏で今日のお天気のように暖かな日和でしたわ。

見るからに年若い痩せた男の子がそこで待っているのが見えました。

今 Dimashは27歳ですから、あれは7~8年ほど前のことですわね。

その時丁度観客が入場している頃でして、外には臨時のステージが設けられており、みなさん私たちを見ていらっしゃいました。

私はそこでDimashの為に祝福を贈りましたの。

彼は私の手にキスをして「Apa(年長の女性への尊称)、祝福頂きありがとうございました」と言って去って行ったのです。

 

(ナレーション)

“カザフの雲雀(ひばり)”と称されているBibigul Tulegenova(ビビグル・トゥレゲノワ)の名前は一般に広く知れ渡っている。

彼女は最も早い時期から優秀な歌手/アーティストの代表とされている。

カザフスタンの歴史上、旧ソ連において “人民芸術家” という栄誉ある称号を受けたオペラ歌手は7名だけだ。

その内の一人がこの ビビグル・トゥレゲノワなのだ。

(ビデオ:<春のワルツ> 作曲:зацепинザシュピン 作詞:зисжинаジスキナ)

 

(ナレーション)

このようなレジェンドからバタの祝福を受けることができたことは、夢見た道を歩み始めた若者にとっては非常に貴重なことだ。

その祝福と共にSlavic Bazaarコンテストに参加したDimashは、大勢の期待を裏切ることなくグランプリを獲得し、名声を挙げたのだった。

 

B:DimashがSlavic Bazaarで優勝して帰国して暫くしてから私たちは大統領府で会いました。

ご両親も彼の傍にいらっしゃいましたよ。

彼はいつも私に白いバラの花をくれるのですが、あの時も大きな花束を抱えて来まして、片膝をついて「Apa、Apaのバタの祝福を頂いたお陰で、Slavic Bazaarではグランプリを獲得することができました」と言ってくれました。

私は「Dear、あなたの前途が光り輝きますように」と言いましたの。

 

(ナレーション)

“前途洋々であれ”、“あなたの旅が幸運の神に守られますように” という言葉は、バタの儀式ではよく使われる祝福のフレーズだ。

旅立つ人間にこのような祝辞を贈るのだ。

 

遊牧民の伝統としてこのような儀式形式となったのであろう。

例として、古代では夏の牧場へ向かう際、このバタの祈りの儀式を行わなければならなかったのだ。

夏の牧場へ移動する初夏の時期は陽光輝き、万物が育つ時期であり、人々も力漲る季節…新たな始まりなのだ。

 

現代に至っては、重要な催しや大切な場面であれば、若者もみな年長者の祝福を受けたいと望むのだ。

芸術の道における先輩たちが、Dimashのどの選択においても全力で支持してきた。

カザフの文化芸術界での優れた者たち、彼の先生であるアシモフは、天性の才能を持ち、カザフスタンの音楽文化を伝承しようとしているこの若者を特別に大事にしている。

 

Asanali Ashimov(アサナリ・アシモフ):(バタの祝辞)Dimash、君には感謝している。

私の心からの祝福を贈りたい。

君の前途が輝くことを祈っている。君の旅(人生)が幸運の神に守られることを祈っている。

如何なる時も自分を大切に、君の(国の)人々は君が必要なのだ。

世界を巡り、我々の栄光の為にも努力を続けておくれ。

君の存在が全世界にカザフ民族を知らしめていることを 私はこの上なく嬉しく思っている。

今ある成功と栄誉を大事にして欲しい。

前途は輝き、ご家族の幸福と団欒を祈る。

 

(映画 <シベリア横断特急> のシーン)

 

(ナレーション)

アサナリ・アシモフはレジェンドであり、彼は一時代を築いた。

彼の主演映画 <シベリア横断特急> は広く好評を得ており、数多の人々がインターネットでこの映画を探して観ているのだ。

彼はまた、“ソ連国家賞” も受賞しており、旧ソ連時代で芸術活動を行っていた者にとっては相当な栄誉な賞なのだ。

 

アサナリ・アシモフは数十年の芸能人生で、多くの天才たちに出会ってきた。

しかし、そのアサナリ・アシモフにとってもDimashはその中でも突出した者であった。

彼は、このようなとびぬけた音楽的才能のある歌手は、映画でも突出した演技ができると確信している。

 

A:彼(Dimash)は映画に出演しても全く問題ないと思うよ。

彼はカメラ映えもするし、彼の曲の情緒表現を見てもそれがわかるね。

Dimashは、今はもう “天才” という言葉では表せない程の多面性を持っている。

彼を形容できる言葉を見つけないとね。

 

天才はたくさんいる。

だが、Dimashはその者たちを遥かに超えているのだよ。

彼のあの端正な顔立ち、バランの良い体形、風格のある気質に器量の豊富さ…どの面においても良い役者になる素養があるのだよ。

人生長くやってきたから、いろいろなことを体験してきた。

 

よくDimashに言っているのだが、私のような歳まで生きるには何に気を付けなければいけないかをね。

彼はまだ若い。才能もある。

健康であれば努力して自分の思う目標に到達することができるのだ。

最も大事なことは、彼が自分の持っているこの才能を大切にできること。

彼は既にフランス、イギリス、中国等の様々な国でコンサートを行ってきた。

これはなかなかできることではないのだよ、とね。

 

(ナレーション)

後輩/若者の努力を見て満足し安心するということはそう多くはない。

特に旧ソ連時代に、成長し、ある程度の知名度を上げられるアーティストはそうはいなかった。

現在の芸能界や音楽界ではあまり理解、支持を得られないことだ。

現在の状況を見れば理解できるが、世界のショービジネスの競争は激しい。

様々な国には才能ある歌手がいる。

今では、大きな大会に参加してパフォーマンスができるようになったが、やはり競争は激しく、アイドルも多くなった。

 

だが、模範となれる者は少ないのだ。

今はインターネットで世界が繋がり、若者たちはネットを通してあらゆる地域や国のパフォーマンスを観ている。

つまりは 違う文化を受け入れる能力も高くなってきている。

様々なパフォーマンスのやり方にもすぐに慣れることができるのだ。

 

新しい、奇抜な、独特なパフォーマンスで注目を浴びるというのがこの業界の常となった。

サウンドやライティングの技術が重要となってきているのだ。

音楽芸術の結晶である作品自体はますます重視されなくなっていった。

 

Lev Leshchenko(レフ・レシェンコ:歌手、ロシア):こんな時代にDimashが類稀なる優秀さで突出してきたよね。

先ず彼の作品について語りたいよね。

多くの人がすぐに成功したいと願っている。

一曲書いたら急いでアレンジして、コンサートで歌うんだ。

ほとんどの人の目標はシンプル、つまり金を設けて成功することさ。

その中の作品はお粗末だったりする。

 

しかし、Dimashの作品はどれも細かい所まで精査されて、彼の頭にある完璧な状態に達して初めてリスナーに届けているんだよ。

今私達が言うところのショービジネスの市場はとても利益主義で、市場と販売という業績の為の一種の “商品” となってしまったんだよね。

昔は文化芸術を重視していて、それは人々の心にあるものを追求する崇高なものであったんだ。

 

Dimashは本物の芸術家/アーティストだよ。

彼はクリエイティブなことに対して何よりも真摯だ。

彼の音楽への愛とそれを追求する姿は本当に純粋だよ。

これは本当に尊いものだね。

 

(ナレーション)

旧ソ連時代のアーティスト達は音楽や文化、芸術に対しては非常に厳格であった。

彼らの時代ではソビエト連邦の全土で知名度を上げることは非常に大変な事だったのだ。

それと同時に連邦の一員として彼ら自身の民族文化は軽視されていた。

“連邦” の意識と “民族” の精神は少なからず対立することになるのだ。

この “連邦” の意識だけが支持され、“民族” 精神は批判すらされていた。

その為、自国やひいてはソビエト連邦全土で成績を上げ、認められるには相当な才能とたゆまぬ努力が必要であったのだ。

 

このような文化背景の下、ソビエト連邦で有名であったバリトン歌手レフ・レシェンコにとって、カザフ人やカザフの芸術家、カザフ音楽文化には非常に深い興味があったのだ。

彼は、若者の発展にはかなり関心があったのだ。

中でもDimash Qudaibergenへの評価は至極高い。

彼に言わせると、Dimashは 映画での演技も問題なくやれる。

Dimashには俳優としての能力も持ち合わせていると思っているのだ。

 

L:彼が歌っている様子は一挙手一投足、憂いの表情や笑顔、みな素晴らしい。

その精神状態、ボディランゲージは音楽の状態にマッチしているよね。

同時に高品質、高水準のボーカルスキルを保てるというのは非常に難しいことなんだ。

身体を動かしながらも安定した声を保つにはその楽曲を完全に把握していなければならないんだよ。

Dimashのパフォーマンスのやり方は彼のトレードマークにもなったね。

 

彼は全ての方面で究極に達する訓練をした天才歌手だよ。

それに加えて彼の容姿、体形は俳優をやるにはうってつけだと思うね。

ステージ上でも会ったし、メイクルームでも会ったことがあるよ。

有名な作曲家の Igor Kurtoy(イーゴル・クルトイ)はDimashの為に多くの曲を書いている。

Dimashの 謙虚で落ち着いた物腰には感動したね。

彼は教養に満ちた人間だ。

彼のステージへの敬意も彼の人生に対しての敬意とその行いへの鉄則となっているんだ。

 

(ナレーション)

レフ・レシェンコはソ連という時代とロシア人に深く擁護されてきた。

彼の深い声、自然で滑らかな装い、優雅で紳士的なステージのスタイル、豊富な表現力は数多もの人々に愛されてきた。

彼の深みのあるバリトン、優雅なステージでの表現力が、歌手が持つべき素養だとしたら、彼の 聴衆の前での振る舞いは彼の同業者の中でも明らかに特別なものがあるのだ。

この 80歳近い歌手/アーティスト、レフ・レシェンコが大衆にもたらしたものは、美しく深いバリトンに留まらず、そのステージを掌握する力だ。

 

L:人を引き付ける歌唱能力に富んでいるということは、高い称賛を受け続けられるということだよ。

私が常に思っていることは、どの人間にも自分の人生に使命があるということ。

歌手にも自分の天命があると信じているんだよ。

これは私個人の考えだけどもね。

 

Dimashにも一種の使命感があるように感じるね。

彼がステージで歌うと、その心にある感情を、声を通してリスナーに伝えることができるんだ。

これは技術で歌っているだけじゃないんだよ。

彼は歌うことで 曲それぞれが持つその意義と深さをリスナーに感じさせることができるんだよ。

Dimashの慈悲、リスナーへの愛と敬意はリスナーに深く愛されるものとなっているんだよね。

彼はまだ若いが、ステージ上でのその表現力は彼の年齢以上に落ち着いている。

これは 彼のパフォーマンスを掌握する力を非常に高めているんだ。

これは身体に流れている血に天からの使命が溶け込んでいるのかもしれないね。

 

(ナレーション)

若者世代の教育の発展に関することに話題を移そう。

この人物の品格を培ってきたものに関心を寄せることになる。

良い家庭教育を受けた子は、その親が誰かを見る必要はなく、その子の行動、言動を見ればその教養がどれほどかは分かるものだ。

 

14:51-39:02

カザフスタンの有名な作曲家、歌手、プロデューサーであるҰлықпан Жолдасов / Ulikpan Zholdasov(ウルクパン・ジョルダソフ)は、ZAKEROMミュージックカンパニーの創設者であり、2017年にDimashが中国の番組<歌手2017>で歌唱した<Unforgettable Day> のプロデュースをしている。

 

この楽曲はDimashの歌唱によりヒット曲となったのだ。

優秀なミュージシャン同士の間ではアーティスティックなインスピレーションが湧くものであり、深く聴衆に愛される楽曲を共に創り出せるのだ。

この才能ある音楽プロデューサーとアーティストの間に芽生えた友情については聞いている者もいるだろうが、知らない者もいるであろう。

Dimashはウルクパン氏の背中を見て育った。

この両家(Qudaibergen家とUlikpan Zholdasov家)は数十年来の友好関係を築いている。

 

U:Dimashが公演に出かける時は いつでもおじいさまとおばあさまの “バタ” の祝福を受けています。

2019年のロンドンコンサートの時は 私が一番の年長者だったので、コンサートの開演前に急に思いついて祈祷をしました。

慌ただしい中でしたから簡単なバタの祝福をしたのです。

 

(バタの祝福をするビデオ)

U:カザフ国民の心からの願いを背負ってやって来た君が全て上手くいき、コンサートが順調に進むことを祈る。

 

15:48

U:あの時は緊張してしまって 良いバタの祝福の言葉を思い付かなかったんですよね。

それであのような簡単な祝福の儀でコンサートが順調に行くように祈ったわけです。

私達カザフ族は バタの祝福の中で育ってきましたので、このような祝福を贈ることは良いことだと思っています。

あの時は私が一番の年長者だったことで、私がDimashを祝福できたことはとても光栄なことでもありましたね。

 

(ナレーション)

ウルクパン・ジョルダソフとその夫人Aikan(アイカン)は、KanatとSveta Aitobaev 夫妻とその家族とはかなり以前からとても親しい付き合いをしていた。

この2つの家族の長きにわたる友情は、彼らが芸能界に入ったばかりの頃から始まっているのだ。

 

U:私たち夫婦はKanat、Sveta夫妻とはかなり以前からの知り合いでした。

あれは1998年でしたか…もう数十年経ちましたね。

当時 私達は大きなイベントに出演しまして、そこで知り合ったのです。

みんなで談笑していると、ご夫婦ともにアクトベ出身だということがわかったのです。

私は Mangystau(マンギスタウ)出身だから、みんな西の地区出身ということで親近感がわいたのですね。

そしてそのまま自然と付き合うようになったのです。

後に彼のコンサートに招待もされました。

 

Kanatはその頃Dimash Aliクリエイティブセンターという会社を設立しました。

これは今でも存続していますね。

当時の彼はあらゆる面でその素晴らしい才能を表していましたね。

私達はアクトベで合同コンサートを開きました。

あの時はファリダ(ウルクパン氏の長女)もまだ幼く、ファリダもBolat(ボラト:ウルクパン氏の長男)とパフォーマンスもしました。

アイカンはイベントの演出を担当し、Svetaと彼女の弟の3人で会場のデザインとイベント活動をまとめる仕事をしていました。

Kanatは総指揮をとっていましたね。

 

私達はアクトベではKanatの家に宿泊していました。

我々の友情はこのようにして始まり、続いているのです。

Dimashは当時はまだ3~4歳の子供でしたね。

話す練習をするのが好きで ピョンピョン飛び跳ねていた時期でした。

音楽の天性があるというのは見てわかりましたよ。

あの頃の彼は既に音楽への興味を示していて、家にある電子ピアノで遊んでいましたしね。

それに私に “どうやって曲を書くのか” を聞いてきたりしていましたよ。

その時私は 彼に曲を書いてあげる約束をして、曲のさわりを書くまではしたのですが、その後忙しさにかまけて忘れてしまいました。

もうずいぶん前のことなので、そのメロディーは思い出せませんね。

 

18:04

アイカン:今でもピョンピョン飛び跳ねていた頃の小さなDimashの姿が目に浮かびます。

あの当時は 仕事の関係でよくアクトベに行っていましたから。

彼が4歳か5歳くらいの時でしたか、よく話す子で、お話をするのが大好きでしたね。

よく飛び跳ねて活発で、家ではずっと鼻歌を歌いながら駆け回っていました。

 

(ドンブラを弾くベイビーDのビデオ)

彼はいつも “アイカン ママアイカンママ” と呼んでくれました。

私が2階へ上がると彼もいっしょに2階までついてくるのです。

私が下へ降りると彼も又走ってついてきました。

エネルギーの塊のようでしたね。

 

ある時、彼の家に行きましたら、彼のおもちゃの電話が2階から落ちてきました。

彼は私達にずっと何かを訴えているようでしたが、後になってそれは彼が私達に電話が壊れたいきさつを説明していたのだとわかりました。

私は今でも時々「Dimash、あなた、小さい頃はあんなにおしゃべりだったのよねぇ」って言って彼をからかうんですよ。

 

その後、彼が大学に入学した時私達はAlmaty(アルマトイ)に住んでいました。

DimashはAstana(アスタナ)の大学でしたので、よく自分でAlmatyまで来てうちを訪ねて来てくれましたよ。

当時はAlmatyでよくイベントがありましたから。

私はミルクティーを用意して彼が来るのを待ち、一緒にお茶を飲みながら話をしました。

ウルクパンも言っていましたが、私達は尽きない程の長電話をするくらい話題がたくさんありました。

 

19:22

(ナレーション)

Dimashによると、初めて中国のコンペティション番組に参加した時のことを非常に鮮明に覚えているというのだ。

この番組を終えて帰国した際、Almatyの空港に着いてすぐにウルクパン先生の家を訪問したのだ。

先生の家族は歓迎会の準備をして待っており、一緒に参加した番組について話をした。

噂によるとこの2人のミュージシャンは徹夜で話をしたようだ。

現在では卓越した業績を上げたDimashだが、Almatyに来るたびにこの先生の家を訪れ、休息をとるのだ。

彼らの間には多くの興味深い楽しい時間があるのだ。

 

U:面白いことと言えば、彼が中国から帰って来た時、飛行機は朝の9時に到着だったので、我々は空港に迎えに行ったのです。

車の中から私達の会話は始まり、夜9時になり、ひいては明け方4時まで話し込んだんですよ。

そして朝食を食べ、食後のお茶を飲んでまた話し、11時まで話をしましたね。

そして倒れ、24時間寝てやっと(体力が)回復したようでした。

 

私達は自分の創作プロジェクト、カザフの民族音楽、世界中の音楽のジャンル、更に現代音楽の興行のやり方についても語り合いましたね。

私達は常に話題に尽きることはないのです。

私達両家はこれほど長きにわたる友情があり、今ではほとんど一つの家族のようになっているのです。

 

私達はみな現在Astana(アスタナ)に居ますので、何かにつけて集まっています。

家に帰るのと同じように「今そっちに向かっているからお茶を用意しといて」と一言電話するだけなのです。

彼らは私達が付き合っているとても良い家族なのです。

それに彼らは模範となる家族でもあるのです。

 

A:それとまた面白いことがありました。

Dimashがまだ大学生の頃、彼はうちに来ると私の携帯でインスタグラムを見るんですよ。

当時、私は早くからインスタグラムのアカウントを持っていた者の一人でしたので、彼は私の携帯とアカウントでいろいろ見ていたのです。

ですから私は彼に「Dimash、自分でアカウントを持てばいいじゃない。そしたら自分の近況も出せるよ」と言ったのです。

その時彼は「自分のアカウントは持ちたくないんですよ。だっていろんな人がいるでしょ、いろんなことを言われるのはイヤだから」と言ったのですよ。

でもその後何があったのかわかりませんが、自分でもインスタグラムのアカウントを作りましたよね。

 

そしてその後、Slavic Bazaarに参加してグランプリを獲得しました。

その時彼のインスタグラムのアカウントは彼の影響力を拡大するのに役立ちました。

彼はインスタグラムで私に感謝してこう言っています。

アイカンママが “クドクド“ とお説教してくれたお陰でインスタグラムのアカウントを作ったら、すごくいい助けになったよ。アカウントを持ったからママたちに僕の近況を知らせることができるしね」と。

 

Slavic Bazaarに参加する以前、彼はMeikin Asiaの大会に出場しました。

また、Oriental Bazaar国際大会にも出場しました。

大会ではウルクパンが創った曲を歌ってグランプリを獲ったのです。

Slavic Bazaarに出場した時に彼とはWhatsApp(日本で言うLINE)で連絡を取りました。

明け方4時に音声メッセージでグランプリを獲ったことを報告してくれていました。

私は元々彼の大会の結果を心待ちにしていたのですが、疲れて眠ってしまって(着信の音が)聞こえず、朝5時に起きてこの大きな喜びのニュースを知ったのです。

その時彼はインスタグラムでグランプリ獲得のグッドニュースを(みんなに)知らせたのですよ。

KanatとSvetaも私がずっと言い続けてやっとインスタグラムのアカウントを作ったんです。

これも私達の間での面白い思い出となりましたね。

 

22:46

(ナレーション)

ジョルダソフ夫妻のSNSアカウントにも、DimashのSNSアカウントにもDimashと共に成長してきた子達の写真が見て取れる。

その中にウルクパンとアイカンの息子と娘がいる。

恐らく年齢が近いからか、Dimashは幼い頃からファリダとは仲が良い。

 

A:この写真はいつもいろんなことを思い出させてくれます。

これはウルクパンとファリダとボラトのコンサートの時のものです。

当時ファリダは子供たちの中でもステージ経験がありましたから、このコンサートを見に来ていたDimashが、ファリダに花を贈ってくれました。

写真ではファリダは花を抱え、Dimashは首を伸ばして上を向いていますよね。

 

U:あの時あの子(Dimash)は早く背が高くなりたかったんだね(笑)

 

A:写真のボラトは背が高く、歳も少し離れていましたから。

Dimashとファリダは親しく、悩みなども打ち明け合っていたのは、年齢が近くて共通の話題もあったからでしょう。

この頃のDimashは面白かったと記憶しています。

 

B(ボラト):私がアクトベへ行くときはホテルに泊まったことなどありませんね。

いつもDimashの家に直接行っていましたよ。

あの頃 彼はまだ幼くて、わんぱくで活発な子でした(笑)

彼とRaushan(D妹)の二人はよく騒いでいましたね、Raushanはもっと小さかった。

そして一時期、僕が学校に行っていたからか、暫く会っていませんでした。

ある日DimashがAlmatyに来た時に会ったら背丈がもうすごく高くなっていて、びっくりして ちょっと(彼だと)わからなかったくらいでした(笑)

それから暫くして彼のパフォーマンスを見に行ったら、彼の音楽的造詣がかなり深くなっていると思いましたね。

 

24:29

<Qaraǵym-aı :My Dear>

Nurlan Onerbaev(歌)♪Qaraǵym-aı (My Dear)、人生は静かに過行く、愛のない世界は静かなる荒地だ

人生のすべてのページは愛に満たされた一日に比べれば、何の価値もない

Qaraǵym-aı …♪

 

Dimash(歌)♪Qaraǵym-aı (My Dear)、僕を名残惜しそうに見つめる君の瞳には涙が光り、なんと美しいことか、僕の心は張裂ける♪

 

(ナレーション)

<Qaraǵym-aı>はカザフ語では人々の耳に馴染んでいる年長者から年少者への心温まる呼称だ。

例えば父から娘へ、または弟から姉へ…。(※兄から妹へ…かとも思うのですが、後に出てくるKenesさんの境遇が弟から姉なので…)

 

この名曲は偉大なる優しさと愛に包まれて生まれたのだ。

我々の民族の言語文化は非常に豊かで、その言葉の情緒表現は非常に細やかなのだ。

そしてこの “Qaraǵym-aı” というフレーズは様々な場面で使用されるのだが、その時々で違った情感を表すのだ。

卓越した才能を持った詩人Shomishbay Sariev(サリエフ)氏は、娘の嫁入りの時に自分の気持ちを全てこの詩に書いたのだ。

“My Dear、恋する者の情は心を許す。数多の人の中でお前の心を虜にするその幸運な者は誰か?” このテーマは明らかなように見えて、その心の奥には様々な気持ちが隠されているのだ。

“人生はこのように突然過行く、愛のない世界は静寂な荒地だ” …詩人の娘への深い情感に感動する。

 

友人のサリエフに頼まれ、作曲家Kenes Duisekeyevはこの詩から曲を書いたのだ。

このようにして友人である2人の音楽家は共にこの <Qaraǵym-aı>という曲を創り、世に名作を残し、我々の民族音楽を更に豊富にしてくれたのである。

この作曲家は19歳でこの世を去った姉への想いを楽譜にし、無数の人々を感動に導いた。

詩人Lyubov Uspenskaya(リュボフ・ウスペンスカヤ) と作曲家Kenes Duisekeyevは共に現在は我々の元を去ってしまったが、我々に豊かな音楽の財産を残してくれたのだ。

<Qaraǵym-aı>というこの曲は

30年もの間Nurlan Onerbaev(ヌルラン・オネルバエフ)によって歌われてきた。

 

N:私の歌に生命力があればといいと思っている。

30年歌い続けてきたこの<Qaraǵym-aı>のようにね。

 

(ビデオ:カザフスタン最初の宇宙飛行士に捧げる)

カザフスタン最初の宇宙飛行士はToktar Aubakirov(トクタル・アウバキロフ)

 

N:そっちはどうですか?

私達は(宇宙にいる)あなたを見てとても嬉しいですよ。

あなたへの想いを込めて、みんなが大好きな曲を歌いますね。

♪Qaraǵym-aı ~ ♪

 

N:皆さんもご存じの通り、Dimashがこの曲を歌ったことで、この曲に2度目の生命を吹き込んでくれました。

彼のその特別な声でその表現力を最大限に活かし、非常に深く感情をこの歌に込めました。

それにこの <Qaraǵym-aı> は ミュージックビデオでDimashにより世界中のファンが気に入ってくれ、カザフ民族の名作として感動を呼んだのです。

 

命のある曲というのは、こういうものなのです。

それぞれの時期に一番適した歌唱者を得るもの。

<Qaraǵym-aı>に第2の命を吹き込む歌手、未来の最適な歌唱者はDimash以外にはあり得ないと思っていますよ。

 

 

 

 

29:06

(ナレーション)

Dimashの歌唱はこの曲に第2の命を吹き込んだ。

彼のパフォーマンスで さらに多くの人々がこの曲を聴き、理解することとなったのだ。

2021年初め、<Dimash Degital Show> でディレクターを務めたAnnaはこの<Qaraǵym-aı>をオンラインの形でリスナーに届けた。

心を打つ音楽と情景を一体化するやり方は反響も大きかった。

ピアノの演奏はZarina Bozhakova。

 

26:06

Anna Oboyanskaya(アンナ・オボヤンスカヤ:Dimash Digital Show ディレクター):ピアノの演奏はZarina Bozhakova(ザリーナ・ボジャコワ)が担当しましたが、彼女はビアノが上手いだけでなく、演技の才能も発揮してくれましたね。

このストーリーの情感を的確に表現してくれました。

この曲の中では 花嫁が純白のドレスを纏って優しくその旋律を刻むのです。

 

最初にKanat Aitbaev 氏がこの曲の背景を語ってくれた時、このシーンが頭に浮かんだんですよ。

でも最初、ザリーナはこの役を受けてはくれなかったので、彼女を説得するのに苦労しました。

恐らくカザフの女性のシャイな性格のせいでしょうかね、恐がっちゃって。

ですから説得する為にこの曲の創作背景を話して、彼女がこのステージのピアノ演奏だけでなく、このストーリーの主役として観客を引き込んで欲しいと頼みました。

そして、早くに亡くなってしまい、女の子の "お嫁さんになる" 夢が実現できなかった気持ちを演じて欲しい、と。

私達の目標は、限りあるステージでそのストーリーと背景にある深い感情を観客に表現することですから。

 

30:07

Kanat Aitbaev:あの時Dimashが電話の先でとても嬉しそうに「ケネスagaが彼の誕生日の式典で<Qaraǵym-aı>を歌ってもいいって言って下さったんだよ。僕の歌を認めて下さったんだ、そして僕に大きな激励を下さったんだよ。すごく嬉しいよ」と言ったのを覚えていますね。

Dimashはこの曲を彼なりの解釈でパフォーマンスをして作曲家の先生に認められたのです。

どの歌手もそれぞれに自分の歌唱スタイルというものがあって、自分なりの解釈で観客にその情感を伝えるものです。

それぞれの曲に対する理解は違いますので、Dimashは彼の解釈で歌いました。

 

私達にとって最も大切なことは、その作曲家としてトップの地位にある方、尊敬している先輩に、デビュー間もない後輩がこういう形で認められた、ということなのです。

先輩のバタの祝福と励ましを受けて育った子の運が悪いはずがありません。

成長していく上でDimashが年長者、先輩方、先生方の下で祝福、叱咤激励を受けることは彼にとっては幸運な事なのです。

彼がこのような教示をしっかりと胸に刻んで、これからの人生を正しい選択をして一歩一歩自分の夢を実現していって欲しいと願っています。

 

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