今日はかなり真面目に、愛着障害とは?について書いてみようと思います。
愛着障害の傾向を理解するキーワードは、
〈親密さの問題〉です。
身体的虐待、性的虐待、心理的虐待、ネグレクトに次いで、第5の虐待と言われているのが、情緒的虐待。
これは、見えない虐待とも言われていて、専門家でも見逃してしまいがちなものだそうです。
そったくと言って、雛が孵化する時、殻を内からつつき、母鶏がそれに応じて外から殻をつつき返して殻を割るサポートをする。
愛着形成の初めの一歩。
この母子間の交流がない状態が幼少期まで続くと、子どもは愛着障害になってしまう。
基本的信頼感は、エリクソンが想定した人生の初期に獲得する発達課題。これを得られなかったり希薄だと、愛着形成しているいわゆる普通の人とは
(何かが決定的に違う)という感覚が常につきまとう。
何かとは、他者との情緒交流の有無のこと。
親の倫理規範に倣って成長していくことのできない愛着障害のひとは、自分の周りの社会を見て、かりそめの倫理規範を学びながら成長していくことになる。
あくまでも“かりそめ”であって、精神年齢は幼少期のままだけど、それでは社会生活を送れないので、自分で作り上げたツギハギだらけの服で身を固めて生きていく。
親密とは思春期以降に獲得される発達課題とされている。
愛着障害のひとは、打ち解けてくると次第に離れていき、親しさが深まらない傾向がある。
このことが理解しにくい人は、愛着障害ではないことを証明しているようなものです。
普通に共感はしているのだけど、共感していることを表に出したがらない。
共感すると人が寄ってくる。
これは愛着障害のひとの「親密は怖い」という琴線に触れてしまうため。
仲良くなってくると、居心地の悪さが表面化していく。
こんな感じだから、相手から愛想をつかされる場合もある。
愛着に障害があるひとを、もっと深く定義すると、愛着を怖れているひと。
それによって、独特な友人関係、恋愛関係、夫婦関係、親子関係を作ることになる。
そのような関係性の中で、情緒的交流をすることによって、安心感を育てていくことはできる。
普通の人は、恐怖感情の外側には安心感という膜で包まれているのに対し、愛着障害のひとは、恐怖感情が露出している状態。
回復してくると、安心感という薄皮が恐怖の表面を覆い始める。
何度もこの薄皮を張る作業を繰り返すことで、安心感が分厚くなっていく。
とはいえ、とてつもなく大変な作業ではあります。
愛着障害のひとが回復したらどうなる?
晴々とした明るい人生が待っている?
いいえ、つまらない日々が待っています。
愛着障害のひとにとっては、そのつまらない平和こそが安堵をもたらす。
「今日もつまらない1日になりそうだな」
と、ひとり空を仰いでつぶやいている。
私自身、そんなつまらない平和な日々の、まだまだ道半ばです。
少しでも、自分は愛着障害かも??と思っている人の自己理解に役立てば幸いです
写真の貼り付け方が分からない
記事デザインって所から空の写真を選んだけど、選んだ写真じゃないので、削除したいけど、削除の仕方も分からない
ありがとうございます