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そんなチーム中野ココス。
広報です。
ココス内は今社会人と学生がいりまじり、非常に大変な時期にあります。
ある人は教育実習に行っていたり、社会人組は休みが不定期だったり、ものすごく過酷な労働条件の中、各々の生活に追われています。
梅雨が明ければまた皆で集まり野球をしますので今は充電期間で。
試合もできればやります
顎の人です。
昨日はココスの練習には参加できませんでした。
なので練習については何も書けないのですが、広報から学会活動について書けと開口一番言われたので、書かさせていただきます。
先にいっときます。どうなっても知りません。途中まで読んでツマンネと思った方はそっと戻るをクリックしてください。
昨日と土曜日には、東京歴史科学研究会の第43回大会・総会というものが立教大学でありました。
学会に行くのなんて初めてだったので緊張していたのですが、普段着(ジーパン)でもかまわず、御話を聞くだけだったのでそう硬い感じでもありませんでした。
今回の大会のテーマは「戦争責任と植民地支配認識―教育と研究の架橋にむけて―」というものでした。昨日は伊香俊哉さんによる「『戦争違法化体制』と日本」と、金富子(キム・プジャ)さんによる「植民地教育の実相から植民地支配認識を問い直す~教育版「植民地近代化論」を再考する~」という二つの委員会企画の発表があり、そのあと今野日出晴さんによるコメントと、全体での討論が行われました。まことに恥ずかしいことながら途中何度か眠気に襲われてしまったのですが、非常に興味深く、また学問的好奇心を刺激される内容でした。
伊香さんの発表は、第1次大戦後、国際連盟の発足や軍縮協定、9カ国条約やパリ不戦条約などを経て、戦間期の国際社会においては「戦争違法化体制」とでもいうべき枠組みが形成されており、その中で日本がどのように行動していったのかについてを分析したものでした。
当初、国際連盟(日本は常任理事国)が発足したころにおいては、日本はこのような流れには消極的であり、自らの帝国主義的膨張の可能性を探っており、その後、日本の中においてもこの「戦争違法化体制」自体は認めつつ、満州事変など自らの行う中国大陸への侵略においては「自衛」の立場をとることで、法的枠組みを利用しつつそれを合理的に説明しようとしていきました。
国際社会においても、満州事変の時点では日本を擁護する向きも(ことを荒げないようにするため)あり、むしろ満州事変を前例としてイタリアによるエチオピア侵攻が正当化されるなどといった事態も現出しました。
しかし、国際世論における戦争違法化、侵略の否認といった動きは大きなうねりとなっており、もはや国際社会においてこれを無視することなどはできなくなっていました。
そんな中、日本は1937年以降中国に対する全面戦争へと突入し、国際連盟は公式に日本に侵略認定と個別制裁を適用しました。日本の戦争はすでに同時代的にも「侵略」と認定されていたといえます。
日本はそのように戦争違法化体制を自ら蹂躪しながら、アジア太平洋戦争期には、「大東亜共栄圏」の内部において紛争の平和的解決原理を踏襲するという、自己矛盾の極致ともいえる論理を展開しますが、これは、戦争違法化体制に反発しながらも結局のところそれを乗り越えることさえできなかった日本の姿を示しているといえます。
続いて金さんの報告は、植民地期朝鮮における教育政策を見ることで、「植民地近代化論」(=植民地統治によって近代化、資本主義が進展した、という論)の誤りを指摘し、これを乗り越えようというものでした。またその際、従来見落とされがちであったジェンダー(生物学的性差=セックスではなく、歴史的、社会的、文化的に形成された性差。働く男・家を守る女など、男らしさ・女らしさというイメージなどがこれにあたる)の視点を重視するものでした。
植民地近代化論は、戦後の韓国における経済発展を背景に、その源流を日本の統治時代に見出そうとするもので、現在でも一般レベルから政治家、韓国におけるニューライトの学者など、幅広い層によって支持を受けているものです。また、これと似たもので植民地近代性論というものもあり、これは「近代性」を否定的なものとしてとらえた上で、植民地において「近代性」が浸透していったと見るものです。
しかし、金さんはこのどちらにも批判的であり、これらの研究からは朝鮮のエリート層の姿は見えてきても、社会の底辺にいる人々の実相は見えてこず、そこに現れる「暴力」、「収奪」による「植民地性」への言及がないとしています。
「日本の統治によって朝鮮に近代教育が普及した」というのは近代化論でよく語られ、「ハングルは日本人が教えた」といった言説もよく見られます。しかしながら、朝鮮においては義務教育制度が敷かれたことはなく(1946年から予定されていたものの敗戦により実現せず)、普通学校と呼ばれた初等教育機関も決して十分なものではなく、日本でいえば寺子屋にあたる「書堂(ソドン)」と呼ばれる教育機関も引き続き利用されているほどでした。
この普通学校をめぐっては、1930年代以降においてその就学率が急激に伸びたことをもって、教育の普及とみなす論理が多く用いられます。しかし、実際に重要なのは就学率よりも「完全不就学率」のほうなのです。この「不就学率」を見ると、当初(1910年代)には男女とも90%を超えており、1930年代にはいって減り始めるものの、1940年代に入っても男子35%、女子70%ほどであり、依然多くの人々が不就学であったことがわかります。このように、「常態的不就学」であったということが何よりも大きな問題なのです。
さらに言えば、男女間のジェンダーによる差異を甚だしく、男子においては1920年ごろ、30年ごろ、40年ごろと段階を踏んで徐々に就学率が増加しているのに対し、女子においては1930年代後半に至るまではほぼ横ばいとなっているのです。これは教育におけるジェンダー差別が横行していたことを示しています。
このようなことが起こった原因としては、一つには朝鮮民族内部における伝統的な女性差別意識に基づく、女子教育の軽視(家庭内教育が主)と否定がありました。そして、30年代後半になって就学率が増える背景には、朝鮮民族を支える「賢母良妻」(朝鮮語ではこのように書く)がよいとするジェンダー的規範の広がりがありました。
一方、日本の側から30年代以降の女子教育増加の要因を探れば、それは「皇国」(日本)民族を支える「良妻賢母」の国民づくりという目標がからんでいました。
就学率の悪さの背景には、そもそも学校数が少ないという問題がありました。そのため、朝鮮人による学校増設の嘆願が幾度となく出され、ついには朝鮮総督府も30年代後半に学校を増設することに同意するのですが、ここで新たに置かれたのは6年生の普通学校ではなく、4年生の学校だったのです。日本の学校法規の関係上、この4年生の学校を出ただけでは上級の学校(高等小学校など、今でいえば中学校)に進むことはできず、事実上4年間で教育の道を閉ざされるということを示していました。
また、教育の内容にも「植民地性」があらわれています。当時、朝鮮人の社会は農村農民社会であり、その大多数は農民でした。日本としては、朝鮮半島を日本の食糧生産基地としておきたい狙いがあったため、学校教育においても、何よりも農業教育に重点が置かれており、特に2年生の簡易学校などにおいては週の時間数30時間のうち10時間が職業(農業)に割かれているほどでした。また、国語(日本語)の時間数が9~12なのに対して朝鮮語は2~5時間と少なく、農業に従事する帝国臣民を教育していくことが目標であったことがわかります。
1930年代後半になると就学率が向上していきますが、それは日中戦争の全面化などを受けて、農民から兵士へと教育目標の中心がシフトし、「皇軍兵士」を多く育成することが求められたからであり、そこから悪名高い「皇民化教育」が始まっていくことになったのです。
こんな感じだよ。一応書いたお。全部読んだ人なんていないと思うけどな。
しんどい。かなり時間かかったんだが。
来週は普通のブログかくよ。たぶんね。てか誰か代わりに書けw
相変わらずアゴブリンがブログを担当します。
昨日もいつものように原っぱに集まって野球しました。
空も晴れ渡って春の日差しが心地よかったです。
てか暑かったです。
途中キングクリムゾンが発動してしばらく記憶がないんですが、いったい何があったんでしょう。
気がついたらアイスをおごることになっていました。
あると思います。
ガリガリ君とか何年ぶりに食っただろうか…
なんか小学生のころを思い出しました。
さて、練習の後は広報、アニメーター、イケメン担当、アゴの4人で中野へ。
野球用品見たりフェニったりしました。
その後イケメンとアニメは途中で離脱したため、残った広報とアゴの二人で寿司食って帰りました。
来週はグラウンド練なので、皆さん是非参加してください。
