94 :大人になった名無しさん. :04/10/26 23:03:25
母ちゃんは俺が4つの時病気で死んだんだ。
ぼんやりと覚えてる事がひとつ。
公園でいつも遊んでた、夕方になるとみんなの母ちゃんが迎えにくるんだ。
うちの母ちゃんは入院生活が長くて、どうせ帰っても親父は仕事だし誰もいない。
暗くなってもよく公園にいたな、兄貴が部活終わって公園の前通って一緒に帰るのが日課だった。
その日も暗くなっても砂場で遊んでた。
そしたら俺を呼ぶ声が聞こえて母ちゃんが息切れしながら歩いてきた。
ママーママーって馬鹿みたいに叫んで走ったよ。
暗い中、ブランコに一緒に乗ろう、って母ちゃんが俺を膝に乗せてしばらくそうしてた。
その後何日かして病院で死んじまった。
後から親父に聞いたら、自分でも長くない事わかってたらしい。
あの時母ちゃんどんな気持ち抱えてたんだ?
どうしていつも病院にいるの?ってしつこく聞いてごめん。
辛かっただろう。
来年、俺彼女と結婚するよ。
母ちゃんの分も向こうのお袋さん大事にすっから。
長文スマソ。
98 :大人になった名無しさん :04/10/27 22:36:47
94の見て号泣しちゃったよ。
うちの母親も私が小5の時病気で死んじゃったんだ。
入院生活も長かった。
遠足とか運動会のお弁当はいつも父が作ってくれてた。
ママは病気だから仕方ないって頭ではわかってたつもりなんだけど。
みんなはママの手のこんだ可愛いお弁当でさ、それが凄く羨ましくて3年生の遠足の時、朝父が作ったお弁当見て
「可愛くない!みんなはママが可愛いの作ってくれるのに私恥ずかしいよ!」
って父に言っちゃった。
父は、ごめんって会社に行った。
ふてくされてたら洗面所にいた兄貴が飛んできて私をひっぱたいたんだよね。
「んなら遠足なんか行くな!」って。
ワーワー泣いて結局その日休んじゃった。
いつもより早く父が帰ってきて、こっそり覗いたら台所のテーブルで何か本見てる。
「こどもの喜ぶお弁当」みたいな本だった。
それ見たら自分がした事の酷さに又泣いた。
それから父が朝作ってくれたお弁当一緒に食べた。
「ごめんなさい」って言ったらちょっと父が涙ぐんでた。
ママにはこの日の事言えなかった。
病院で「遠足楽しかった?」って聞かれて「うん」って嘘ついた。
ママ、あの日パパに酷い事言ってごめんね。
嘘もついてごめん。
120 :大人になった名無しさん. :04/11/05 22:20:52
私の母はかなりの苦労人生だった・・父は母の友人と浮気し母を精神的に追い込んだ上、
離婚した・・
その後、周りの勧めで復縁したが父はすぐに酒のせいで肝硬変、
そして死・・
その間、母は死に物狂いで父の病院代を稼ぎ出し
(父は母に保険金を遣りたくないとか入院前に解約・・)
私たちを育ててくれた・・
私は普通高校を辞めて定時制に通いながら働いた・・母の助けが出来たのか?
ある日、夜中に母から起こされた・・
『お金をくれないか?』
母はこんなに困っていたのか・・
私はいつも渡す生活費に3万円上乗せして
渡した・・
母は手を握り「ごめんね・・ごめんね」としか言わなかった・・
その年の五月のある日、母は自殺した・・
死ぬ前に私に「いすが見つからない」
と私の部屋から借りたいすで首を吊った・・
第一発見者は私・・
お葬式の日、花屋から母のために用意してあったカーネーションが届いた・・
母の後を追いたくなった・・
でも、生きていて母の供養をしていきたい・・
134 :大人になった名無しさん :04/11/08 18:52:35
漏れは特に親を大切にしてきたわけでもなく、親に大学まで行かせてもらってる。
両親共働き苦労してるよ。まぁ兄弟3人だしな。
毎年、漏れの誕生日には2000円くらいのものではあるけどカーチャンがプレゼントくれるんだよな。
20歳の誕生日って、なんとなく区切りの歳だろ。
漏れ、逆に何かプレゼントしてやろうと思って一日かけて探した。
カーチャン、コーヒー飲むのが好きだから、結局買ったのがコーヒーミル(コーヒー豆挽くやつ)とコーヒー豆。
まぁ、それでも二つあわせて4000円くらいだ。
我ながら良い物買ったなとか思ったよ。
いつもよりちょっと豪勢な晩御飯の時に例年通りプレゼントもらった。
漏れも照れくさかったけど、
「まぁとりあえず20年ありがとうということで・・・これ」
ってプレゼント渡したんだ。
そしたら不思議そうな顔して大粒の涙をこぼした・・・
今まで、馬鹿なことして泣かしたことは何度かあったけど、喜んで泣いてもらったのは初めてだったな。
さすがに驚いた。こんなことでも泣いてくれるのかって。
逆に自分はこんなこともしてこなかったってことだよな。
今漏れは22歳、無事就職も決まって卒業を待つばかり。
これからはもう少しカーチャンを大切にしようと思う。
無償でこんなに大切にしてくれる親って、やっぱりすごいよな。
273 :大人になった名無しさん :2005/04/16(土) 07:35:38
私のただ一人の味方は母しかいない。
いつもの様に私はどうでもいい事で喧嘩をふっかけた。
いつもは怒ってくる母、その時は悲しそうに何か呟くだけだった。
喧嘩のあとはいつも互いにあっけらかんとしていた。
心では何かひっかかりながらも、親子とはすごいなと思っていた。
この日も、いつもの様に母の部屋にあっけらかんと入った。
そこで母は、パッと見て人間にとって不自然だとわかる格好で倒れていた。
驚いて抱きかかえる。頭が痛いと訴える母。
異常を察し、病院に電話した。
母は「薬を飲めば治る」
「最近たまにこうなっていたが大丈夫だから身内に連絡するな」
と言う。
体の半分が麻痺し、次第に声は小さくなり、目を閉じていく。
病院につくまでの救急車の中。
私はなぜか“病院に着けば大丈夫”という意識でいたので、車内で話しかけたり等しなかった。
医者に言われた言葉は「非常に残念なのですが」から始まるものだった。
理解できなかった。二時間前まで表情のあった母が、
もう二度と目を開けない。
原因は脳出血だった。母はもともと病持ちで、そのため手術が出来なかったのだ。
私はある選択をさせられた。
人工透析をさせずに死なせるか
(病は、一度でも透析をしないと死に至る腎臓病)、
脳出血を放置して死なせるか。
母の死に方を選ばなければならなかった。
家庭環境が複雑で私には説明しがたい妙な自我があった。
その上母は不器用で、母とは物心ついた時から不自然な溝があった。
それを埋めなくてはと思い、母に色々と話をし出した矢先の事だった。
母は他界した。
冷たく、カチカチになった母から私は一晩離れなかった。
ひとりじゃ何も出来ない私を残して、さぞ心配だったろう。
私の身の置き場が決まった夜、
耳元で「ごめんよ、友達が呼んでるからもういくよ」
と声がして、私は飛び起きた。
周りの人は「それはお母さんだね」
と、本当は信じていないながらの言葉をくれた。
一度も「おかあさん」と呼べなかった。
おかあさん、大好きです。
最後まで心配かけてごめんなさい。
279 :大人になった名無しさん :2005/05/05(木) 19:16:48
自分も、他人が読んだらなんとも思わないだろうけど、感謝の気持ちを込めて書かせてもらいます。
うちは親父が仕事の続かない人でいつも貧乏。
母さんは俺と兄貴のためにいっつも働いてた。
ヤクルトの配達や近所の工場とか、土日もゆっくり休んでたっていう記憶は無いな・・・
俺は中学・高校の頃はそんな自分の家庭が嫌でしょうがなかった。
夜は遅くまで好き勝手遊んで、高校の頃は学校さぼって朝起きないことも多かった。
んで、高校卒業してすぐの頃、仕事もしないで遊んでて、当然金は無い。
そこでやっちゃった。盗み。詳しくは言えないけど、まあ、空き巣だね。
ただ、小心者の俺はその日に自首したんだ。良心が、とかじゃなくてびびっただけw
警察に俺を迎えに来た母さんはほんとに悲しい顔してた。でも泣いてはなかった。
一緒に家庭裁判所行ったときも、割と落ち着いてたね。
裁判所の帰りの電車で俺あやまったんだ。
ボソッと「ごめん。」て。
そしたら、
「お母さんこそお前に申し訳ないよ。ろくに小遣いもやれないで・・・本当にお前がかわいそうで・・・すまなくって・・・」
俺、電車の中でぼろぼろ泣いた。
声出して泣いてたと思う。
何やってんだ俺。何やってんだ俺。って思って、情けなくて申し訳なくて・・・
ここでも母さんは泣いてなかったな。
ただじっとうつむいてただけだった。
俺はその後必死になって勉強した。
昼はスーパーでバイトして、夕方からは受験勉強。
そして翌春に何とか大学に合格。
バイトは続けながら大学生活が始まった。
でも、母さんはなんとなく俺のことがまだ心配なようだった。
母さんも相変わらず働きづめだから、そんな生活の俺とはあんまり会話がなかったし、家が貧乏なのに変わりは無かったしね。
だから俺、入学後も一生懸命勉強した。
自分の為っていうより、母さんを安心させてやりたかった。
それで大学1年目の終わりに、
「母さん。ちょっと見せたいものがあるんだ。」
そう言って紙を一枚渡した。
大学の成績通知書。履修した科目が全部『優』だったから(マジ)。
最初は通知書の見方がよくわかんなかったみたいだけど、説明したら成績が良いのはわかったみたい。
母「へえ、すごいね・・・母さん科目の名前みてもよくわかんないけど、すごいんでしょ?これ。」
俺「すごいかどうかはわかんないけど・・・」
母「・・・すごいね。・・・偉いね。」
俺「だからさ・・・こんな物だけで偉そうに言うのもあれだけど・・・ 俺、もう大丈夫だから。母さんを裏切ったりしないから。」
そしたら、母さん泣き出しちゃった。
もう号泣。
そこで気付いたんだけど、俺、母さんが泣くのを見るの初めてだった。
きっと、何があっても子供には涙は見せないようにがんばってたんだと思う。
それを思ったら俺も泣き出しちゃったw 母さんより泣いてたかもw
はあ・・・親孝行しなきゃな・・・
長文すいませんでした。
283 :大人になった名無しさん :2005/05/10(火) 12:40:48
保育園に入った時に、母親が手製の手提げ袋を作ってくれたな。
普通のフェルトの生地でありあわせの材料でお世辞にもカッコイイとは言えなかったものだけど。
大きなボタンのタイヤのついたクルマの刺繍がしてあった。
それを幼稚園か小学校低学年ぐらいまでずっと使っていた記憶があるんだが、
友達なんかはスーパーで売ってるような既製品をみんな持っていて、
当時は、正直恥ずかしかった記憶がある。
いつごろだったかな使わなくなったのは・・・。
10年近く経った最近になってあの手提げがどこにあるか気になって
たまに実家に行くたび探すんだが、まだ見つかってない。
恥ずかしかったのは本当だけど、今ぐらいの年になってみると
どれだけありがたいものだったかとつくづく思うよ。
287 :大人になった名無しさん :2005/06/03(金) 01:35:23
団地住まいの消防のとき、クリスマスの日。
いつものクリスマスはそんなこと無いのだが、珍しくその年は、かあちゃん直々に¥2,980の運動靴プレゼントしてくれた。
デザインはあんま自分の趣味じゃなかったよーな。
そんでDQNな漏れは、その時イライラしてて
「そんなもん金の無駄遣いだよ!さっさと返品して来い!」
と一言。
母ちゃん泣いてた。
今でも鮮明に覚えてる。
あの日に帰ってあの日の漏れに一発くれてやりたい。
今は親孝行しとります。。
悪かった、かあちゃん。
299 :大人になった名無しさん. :2005/07/12(火) 23:03:40
幼稚園に入園したばかりの小さい頃、電車で一時間程離れた所にあるお祖母ちゃんの家によく遊びに行っていた。
母方のお祖母ちゃんだからお母さんも気兼なく行けるようで、母さんと兄ちゃんと(当時小1)弟と俺の4人でしょっちゅう出掛けてた。
お祖母ちゃんの家には同い年の従兄弟一家も住んでいて、部屋で遊んだり外で従兄弟や従兄弟の友達と走り回っていた。
ある日、俺と兄ちゃんだけでお祖母ちゃんの家に泊まることがあった。
俺はお泊まりが大好きだった。(母さん付きだったけど)
特に今回は母さんがいない事に妙にテンションがあがり浮かれきっていた。
よその家で食べるご飯や、従兄弟達とお風呂に入ったり子供大勢で布団を並べて寝るのが何故かとてもワクワクした。そして翌日に電車で帰った
ひとりではとても帰れない複雑な路線でも、電車好きな兄ちゃんがテキパキと切符を買い、乗り換えをしてくれるので、俺は兄ちゃんの手を繋いでいるだけで良かった。
そんな兄ちゃんは駅を降りた帰り道に友達に会い、そしてそのまま遊びに行ってしまった。
だから帰りはひとりだった。家に着くと俺は弟がお昼ねをしているのではないか、と思い小さな声で『ただいまぁ…』と言いながらソロソロと中に入る。
すると母さんは部屋でアイロン掛けをしていた。俺の気配に気付くと、ゆっくりと振り返り『おかえりぃ。
お兄ちゃんと2人で疲れたでしょ?』とにっこり微笑んでくれた。
俺はかなりびっくりした。普段ははっきり言ってかなり厳しいひとだった。いつだって叱られて泣いていた。
そんな母さんが今
俺に優しく微笑んでくれている。
何故か照れ臭くて、でも嬉しくて…。
10分もすればすぐに元の母さんに戻ったけど。それからはお祖母ちゃん家よりも、お祖母ちゃんの家からの帰りが大好きになった。
家に帰ればいつだって優しく微笑んでくれる母さんがいた。そして恐い存在だった母さんの事ちょっぴり好きになった。
意味分からんかったかな??
304 :大人になった名無しさん :2005/07/14(木) 01:28:13
母は俺が幼稚園の年中の冬に亡くなった。
どうしていなくなったのか分からないまま泣いていたのを覚えている。
泣いてる俺に『お母さんはいないけど、お父さんがいるからな』と父は言ってくれた。
その父が再婚したのは俺が小学2年の春だった。
正直父に裏切られた気分だった。
なつく、なつかないのレベルではなくむしろ『拒絶』に近かった。
家に帰ると義母が『おかえり』と言っても無視して、顔も見たくなくて部屋にこもった。
仲良く義母と笑ってる父自身も許せなかった。
俺は棺の中で花に囲まれていた母の姿が目に焼き付いている。
たった一人ぼっちで焼かれて行った母を忘れて父は知らない女と笑っているんだと思い、尚更義母を毛嫌いした。
今思えば虐待されていてもおかしくない程いっぱい意地悪をしてた。
ご飯は食べないし、学校の書類も『親に見せるように言われた』と言って父にしか渡さなかった。部屋にも亡くなった母と撮った写真を飾っていた。
父に叱られても義母と父の前で『母さんを忘れてニセモノを連れて来た父さんが悪いんだ!』と大泣きして怒った。
それでも義母は優しかった。
1年半以上経ち、少し義母の事を許せるようになると今度は実の母との間に苦しむようになった。
305 :大人になった名無しさん :2005/07/14(木) 01:47:26
今こうして義母を許しかけているのは、母を裏切っているんじゃないか?
俺は悩んだ。
そしてとうとう苦しくなり、義母に悩みを言ってしまった。
すると義母は
『我慢しないでいいんだよ。廉君が都合のいい時に私を使えばいいんだから。話してくれてありがとう。大丈夫、裏切りじゃないよ。』
と言って俺を抱き締めてくれた。
それを聞くと妙に安心して不覚にも泣きじゃくってしまった。きっと寂しかったんだなぁ、俺。
母さんが死んだからって忘れる訳がないのに変な意地張ってた。
今年の成人式に初めて手紙をもらった。
『廉君へ
成人おめでとうございます。
初めて会った時からもう13年もたったのですね。早いものです。
初めはなかなか心を開いてくれなかった廉君が私に「おかあさん」と言ってくれた日がとても懐かしいです。
あの頃の私の願いは、いつも「廉君が血の繋がった息子だったら」でした。
そうしたら初めからあなたに受け入れてもらえるでしょう?あの頃のあなたの気持ちを思うと馬鹿な考えです。
でもその必要はありませんでした。あなたはちゃんと自分で悩み、考え、私に言ってくれました。ありがとう。
今では本当の家族ですね。だから私はもう血の繋がりは望みません。
例え血の繋がりは無くてもこうして家族になれる、通じあえる何かがあるのなら、
私はあなたと血が繋がってない事を誇りに思います。
今だから話せますが、私には子供ができません。
そんな私に可愛いい息子が出来て、今日こうして成人した姿を見ることができました。
今の私の願いはただ「あなたの幸せ」です。
これからも私を母でいさせて下さいね。』
全文写してみた。
またうるんできたな。
俺も血が繋がって無いこと誇りに思うよ。
348 :大人になった名無しさん. :2005/10/28(金) 19:46:17
俺んちも母子家庭&貧乏っていうパターンだったけど似た境遇の香具師多いんだな。
小さい頃、周りの友達がみんな自転車買ってもらっててすごく羨ましかった。
でも子供のくせに空気読んで「買って」って言えなかったな・・・
友達と遊ぶ時も俺だけ走ってたな(笑
そしたらある日、家に突然黒い自転車が登場。「あんたの自転車だよ」だって。
よく見ると、古い、しかも女の子っぽい自転車をペンキで塗ったようだった。
たぶん新品は買えなくて、どこかで貰ってきたやつを母さんが塗ったんだろう・・・
仕事と家事で忙しいのに、俺のために慣れないペンキ塗り一生懸命やってくれたんだな。
このスレの病気とか別れとかの話と比べると全然つまんない事だけど俺はこれ思い出すと泣いちゃうな
351 :大人になった名無しさん :2005/11/05(土) 16:44:42
幼稚園の時弁当の時間に仲良かったTちゃんがとなりに座ってて、
「おかずとっかえっこしよ」といってきた。
「うん、いいよ」と私。
そしたらTちゃんの反対側に座ってたAってコが聞こえよがしに耳打ちしたんだわ。
「Nちゃんのお弁当、ごはんばっかだから損だよ。 やめなよ」
たしかに私の弁当箱はご飯を入れるスペースが広かったんだけどね。
母の実家は米どころ宮城でさ。
いつもササニシキのとれたてを送ってもらってて。
しかも釜炊きだったから、私にとってはうちの白飯はご馳走だったわけ。
おむすび弁当だって大好きだった。
別にTちゃんには普通にその日のおかずのコロッケとかそういうのあげるつもりだったんだけど、Aのこの一言でカーっと頭に血が上ってね。
次の瞬間号泣しながらAに掴みかかってった。
楽しいはずの弁当タイムに突然女の子同士のつかみ合い勃発に大慌てで引き剥がす担任。
押さえつけられながら
「おかあちゃんのおべんとう美味しいもん!Aちゃんなんか大嫌いだ!」
とか延々さけんでた…
弁当ひっくりかえしちゃったんだけどさ…
その後私とAは別々に呼ばれて事の発端を説明させられた。
その日のお迎えのときに担任が母と少しの間話してた。
(Aの親も同様になんかいわれてた)
帰り道、いつ怒られるのかとびくびくしてる私に母はなにも言わなかったよ。
いつもと全く変わらんの。
ただ、その日の晩御飯はいつもより時間が早く、メニューは私の大好きなハンバーグだった。
もちろん炊きたてご飯たっぷり。
352 :大人になった名無しさん :2005/11/05(土) 16:46:38
続き
で、次の日持たされた弁当がいつもと様子が違うわけ。
なんか包みがごつい。
「お弁当の時間まであけちゃだめだからね」と念を押された。
午前のお時間がすぎて弁当タイム。
中から子供の自分の顔なんぞすっぽり隠すくらいでっかいおむすびが1個出てきた。
おかずは卵焼き、唐揚げ、いぶりがっこ…だったかな。
もう周り中から羨ましがられたよ。
「いいなあー!さるかに合戦みたい!」
「僕もママに同じのつくってもらう!!」
照れ笑いしながら一生懸命食った。
たらこだの梅だのねりおかかだの色々入っててさながらビックリ箱おむすび。
途中で腹くちくなったけど最後まで休み休み平らげた。
帰宅してからっぽになった包み手渡したら、顔中くしゃくしゃにして喜んでくれましたね。
おかあさん有難う。改めてうちのご飯は世界一だと思ったよ。
ガキのクセに生意気な感想だけど。
家を出た今も、米は釜で炊いてるよ。
でーっかい具たくさんおむすびは私が落ち込んだときに作る必殺入魂メニューです。
=長文にお付き合い頂いて有難うです=
406 :大人になった名無しさん :2006/08/27(日) 21:27:23
今回の帰省は自分なりに親孝行したつもりでいました。
父が大病を患い、母も心労で相当疲れきってました。
そんな両親を、行きたい所へ連れてって、食べたい物を食べさせて、できるだけ傍についててやりました。
ところが私が帰る時、駅まで見送りに来てくれた母は私が階段を上がっていく姿を痛めた膝や腰をかがめてまで、私が見えなくなるまで手を振り続けてくれていた。
その姿を見た私は、電車の中で思わず涙した。
自分では十分親孝行したつもりでいたのに、心の支えにはなってやれてなかったことに気づきました。
あんなに寂しそうな母を、私にはどうしてやることもできず、病床の父を楽にしてやることもできず、何の力にもなれない自分を責めました。
今まで苦労して私を育ててくれた両親に対して、なぜ恩返しひとつできないのかと…。
病気の父と、心労で倒れそうな母を思うと、あまりにも辛くて悲しくて、何かをしてる最中でも涙が溢れて来ます。
私は今度生まれ変わる時はもう人間には生まれて来たくないです。
こんなに辛い思いをするなら、一人ぼっちでも生きていける野性の動物に生まれたいです。
お父さん、お母さん、こんな無力な娘で本当にごめんなさい。
幸せにしてあげられなくて、苦労ばかりさせてしまった事を許して下さい。
417 :大人になった名無しさん. :2006/09/29(金) 22:55:44
今日は俺の36歳の誕生日だった。
お袋が誕生日おめでとうと電話してきたのだが何やら様子がおかしい。長年患ってた糖尿病の影響で眼が見えにくくなってきており近日レーザーを眼にあてる治療をするそうだ。
だが最後にはいつものように早く定職に就いて結婚しろと愚痴を言ってくる。
情けない話だが5年前に保険会社を辞めてからずっと気ままなフリーター暮らしを続けてきた。
金欠の時にはお袋から金を借りたりもした。
いつもの愚痴は鬱陶しいなと聞き流してたが今日はなんだか身に染みた。
糖尿病で失明するというのは知識としてあったがまさかお袋がそうなりそうだとなると俺は何やってんだという気持ちでいっぱいだ。
がんばって職探して早いとこ結婚して眼が見えるうちに孫を見せれるようにがんばるよ。
お袋今までぐーたらでごめん。
439 :大人になった名無しさん :2007/03/09(金) 10:57:40
お母さん大好き。
太陽のような人だ。
私が失敗したときやつまずいたときには、
『くよくよするな!』
『母さんが助けてやる!』と笑い飛ばし、
私が傷ついたときには一緒にわんわん泣いて、なぐさめてくれた。
母さんがいなければ私はダメになっていたかもしれない。
ありがと。ありがとう。
今は一人暮らしだけど、お母さんと一緒に暮らしたい衝動にかられます。
最近弱ってるからかな。
春になったら会いに行くね。
444 :大人になった名無しさん :2007/04/06(金) 07:02:25
家が旅館やってたから母さんはバリバリの女将だった。
いい着物を着て旅館の仕事まわしてた。
でも父親はろくでもないから外に女つくったあげく、離婚・商売たたむことになった。
生活は一変。母、姉、私、母方の祖母でアパート暮らし。
私だけ親戚の家に居候したこともあった。
でも、私立高校も転校することなく大学まで行かせてくれた。
慣れない会社勤めしてさ。
数年後には母ひとりで新居まで建てちゃった。
70歳までローン地獄。
それでもカラカラ笑ってた。
そんな母がしみじみ私に謝ったことがある。
新居への引越しのとき。
二人で荷物を運んでたら、
急に母が
「私が離婚さえしなかったら、アパート暮らしもしなくてすんだし…。慌ただしい引越し何度もしなくてよかったのにね。ごめんね。」って。
私は呆気にとられてしまった。
離婚の直後も、母は「あんたたち子供のことは何があっても一生守るから」ってそれだけを毅然と言い放っていたから、母が建てた新居への引越しの日にまさか謝られるとは思ってなくて、びっくりした。
「あのまま親父と離婚してなかったら、こんなピカピカの家に住めないよ!だから私、今のほうが幸せ」
って冗談めかして言ったら、
「そやなぁ。あんた、ええこと言うなぁ」
って母が笑ったから安心した。
この時ほど神妙な顔の母を見たことがない。
今でも脳裏に焼き付いてる。
最近、母がローン組んで家建てた理由が分かった。
「娘二人をちゃんと『私たちの家』から嫁に出したかった」
「二人がいつ帰ってきてもずっと変わらず居場所があるようにしたかった」
冗談じゃなく、母さんといる今が幸せ。1番幸せ。
まだまだ嫁になんか行ってやんないw
長文失礼しました。
448 :大人になった名無しさん :2007/04/11(水) 23:19:37
まだ俺が小さかったとき、なにかつらい事があれば「おかぁが守ってあげるから!」と元気いっぱい励ましてくれた母。
「パソコンを使った仕事がしたい。」そんなガキッちぃ俺のわがまま聞いてくれて
「おまえが仕事楽しくできるんだったら。」と、金もないのに、借金して専門学校に行かせてくれた。
そんな俺も成人になり無事就職。
先週2年ぶりに帰郷した。
その日、母と久しぶりにスーパーの買出しに行った。
ふと、隣で歩いている母に目をやると、あんなに心強かった母がすごく小さく見えた。
今まで苦労かけっぱなしだったね。
これまで自分を支えてくれた分、これからはたくさん恩返しをしたい。
ありがとう。
449 :大人になった名無しさん :2007/04/17(火) 12:56:12
癌で入院した母を見舞い、病室でバイバイしたのに後から追いかけて降りて来て出入り口で見送ってくれた母。
私が見た正気で元気な最後の母の姿…
あれから4ヶ月、今生に母は居ない。
母の意識がしっかりしているうちに伝えたかった。
「私を産んでくれてありがとう」
最期のお別れまで言えなかったけど、本当に感謝しています。
452 :大人になった名無しさん :2007/04/21(土) 22:04:29
僕の母も癌でした。胃を全部切除する手術を受けましたが、容態が回復することなく世を去りました。
僕が結婚して5ヵ月後のことでした。
「千の風になって」と言う歌を聴くと涙が流れてなりません。
僕の母も千の風になって僕を見守ってくれているのでしょうか。
父親が脳梗塞で亡くなり七年後のことでした。
お父さんお母さん、僕を育ててくれて本当にありがとう!
この思い、
両親に届けてくれ・・・
千の風よ!