テアトロ寄稿文 | 中津留章仁のブログ

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雑誌「テアトロ」にも3.11関連の文章を書きました。

以下全文です。



 震災以前と以降で、扱う主題が多少なりとも変化しているという向きもあるのかと存じますが、私の場合、その根本は変わっていないような気がいたします。震災以前から社会的背景をモチーフにすることがベースにあったからです。勿論、震災を扱うということに関しましては神経を使いましたが、過剰に気負うといったようなことはなかったように思います。元来、劇作家として世の中とどのように関わっていくかを考えている故、震災を扱うといった行為は、半ば必然のように感じられました。その際に、演劇という行為で一体何が出来るのか、そのことについてずっと考えていたように思います。そしてその考える方針としましては、私自身が被災していないという現実、これが大きく関わっていたように思います。
 この、私が被災していないという事実は、自分は何も出来ずのうのうと暮らしているという、ある種のうしろめたさとなって、私に襲いかかってきたように思います。きっとこの思いが、私だけでなく、多くの人をボランティアへと導いたのでしょう。
 では何故うしろめたい思いが沸き上がってきたのでしょうか。私もあのとき、ボランティアに行きました。そこで出会った人々は、ボランティア活動を行うことで、自分自身に、ある種の救いを求めているようにも思えました。この自然がもたらした未曾有の破壊的暴力に対して、どのように自分を保てば良いかわからなかったからではないかと思います。      
 私はその時、現代人には思想が欠落しているのだと、実感しました。
 我が国の場合、経済に関しては、とかく様々な方針が打ち出されますが、人が生きる、というもっと根本の事象に対して、考える指針があまりにも少ないのではないでしょうか。また、地下鉄サリン事件以降の新興宗教への不信感もそのまま、思想の欠落に関与しているのかもしれません。これは私の最新作でも書きましたが、思想が欠落してるのは、政治家だけでなく宗教家や芸術家、評論家、そういった知識人たちの怠慢なのではないでしょうか。思想なくしては、人は生きてはいけないのではないでしょうか。
 アルバイト時代、芸術は食べていけないから大変だね、という言葉を私もさんざん聞かされてきましたが、これは経済の観点から見た話であって、私が述べる「生きる」ということとは無関係です。働くという行為が経済活動なら、感じる、考えるという行為が生きるということなのです。生きるという行為には、目の前の事象をどのように捉えていくか、これがとても重要な要素になっていきます。つまりそこで何らかの思想、考え方の指針が必要なのです。思想や考え方の指針を変えれば、目の前の事象もまた変わって感じられるということです。しかしながら、いつからか現代人は「生きる=お金」という図式が当然となってしまっているような気がします。お金を稼ぐという行為に関しましてはかなり合理化されてきたように思いますが、生きるという行為に関しましては、とても下手になっているように思えるのです。私は一人の劇作家として、皆様と共に、この問題としばらく向き合っていこうと思っております。
 ボランティア先の石巻では、度重なる余震が続き、作業に入る際は必ず、大きな余震が来た場合は作業をすぐに辞め、一目散に標高の高いところへ逃げて下さいと言われました。作業より人命、当然ですがこれが思想、考え方の方針です。それを聞いた私たちは考えて近くの高台を探し、予め逃げ場所を決め、そこまでどのくらいかかるかを計算します。これが生きるという行為です。例えが単純すぎるかもしれませんが、以上のことが思想と生きるという行為との関係です。思想があれば、生きるという行為を、人間はごく当たり前のように営むのです。逆に言うならば、こんな事も出来ない、生きることが下手になっている現代人は、よほど病的な状態であるといえるかもしれません。
 面白いことに、ボランティアの方々には思想が欠落していましたが、石巻の現地の方々からは確固たるものを感じとることが出来ました。それは、誰一人として海を憎んでいないということです。私も九州の海辺で育ちました。小さい頃は台風の波にのまれた子供を、大人が助けるという姿を何度か見たことがあります。それでも皆、海辺で生活します。海からの多大なる恩恵を受けているからです。そこには人命の尊厳と等しく、海の尊厳、自然の尊厳、といった思想があるのでしょう。
 5月の初旬の石巻の瓦礫の中に、いくつか鯉のぼり掲げているお宅がありました。ここにもまた、彼らの思想が感じられました。この思想があるからこそ、きっとまた復興出来るのでしょう。



中津留章仁