西郷隆盛の小刀「村正」 | 中杉 弘の徒然日記

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※妖刀「村正」


あの有名な西郷隆盛さんの実像はないと言われています。西郷隆盛は大の写真嫌いです。昔は、写真を撮るときに、「3人の真ん中に入ると死ぬ」という妙な迷信があって、多分それを信じていたのでしょう。写真を撮ると魂を取られるとでも思っていたのかもしれません。極端に写真を嫌って自分の写真は撮らせなかったのです。だから実像はわからないのです。

今、上野にある西郷さんの銅像は想像で造ったもので、従妹や兄弟を見て造ったと言われています。だから、上野の銅像を見て西郷さんの奥さんが、「内の人はこげんな人じゃなかと」と言って泣いたのです。寝間着のような着物を着て、人前に出るようなことはしないということです。銅像を見ると変な着物を着て犬を連れていますが、あんなことはしなかったのです。「内の人はこげんな人じゃなかと」と言った有名な話です。

西郷さんはどのような人物だったのでしょう。この人は昔、一回死んでいるのです。勤王の僧月照(げっしょう)というお坊さんがいて、それと抱き合って錦江湾に入水自殺したのです。それで、お坊さんは死んでしまったのですが、西郷さんは生き返ってしまったのです。

だから西郷さんは「そこで一旦死んだ」という自覚があるのです。だから何物も怖くないのです。「俺は過去に死んだのだから」という妙なものがあって、西郷さんの性格をつくっていたのではないかと思います。

西郷さんは、剣術はまるでダメだったのです。なぜダメだったのかというと、子供の頃喧嘩をしたのです。薩摩の少年たちは刀が抜けないように刀に紐をまいています。鞘(さや)ごとでかかってくるのです。西郷さんは腕で鞘をよけたのです。そうしたら鞘が割れてしまい、腕の筋を切ってしまったのです。それで動作がうまくいかないので、剣術はものにならないとわかっていたので、西郷さんは剣術の修行はほとんどしなかったのです。

西郷さんは馬も乗れなかったのです。西郷さんは像皮病という病気にかかり、キンタ●が膨れ上がってしまい馬にも乗れなかったのです。

沖永良部島にいたときに、象皮病にかかってしまったのです。象皮病とはキンタ●がどんどん膨らんで、5キロくらいになってしまうのです。皮が膨らんでくるのです。

普通よりも大きくなってしまい馬に乗れないのです。馬にのるとキンタ●がひっかかってしまいのれないのです。少しは馬に乗ったのでしょうが、ともかく苦して乗っていられないのです。こんな面白話もあったのですが、みなさん知らないと思います。

趣味は何かというと狩猟です。山の中に入ってキジだかキツネなど追い回して鉄砲でぶち殺すのです。そのようなことが趣味なのですから、西郷さんは獰猛な人だとわかるのです。

動物に憐れみをもっているので普通の人は狩猟などやりませんが、西郷さんは命をなんとも思っていないのです。自分も過去に死んだし、人の命など何とも思っていないのです。

西郷さんの口癖は「こんな問題は簡単じゃ。短刀1本でようごわんす」です。これは有名な言葉です。どんな問題でも簡単です。「ぶっ殺して来い」ということです。ぐじゃぐじゃ議論して長引くよりも、「短刀1本で処理をつけてこいよ」ということです。

そのようなことを何とも思わないのです。そのような人だったとわかるのです。この西郷さんが肌身離さず持っていた刀があります。それが妖刀「村正」です。西郷さんが決して離さなかった妖刀村正。村正は有名な刀です。正宗の門人だったこともあります。

天下の名刀正宗に弟子入りして刀をつくったのです。村正はなぜ有名になったのかというと、三代の徳川家が刺客にやられたのです。やられた刀が村正だったのです。村正がお爺さん、お父さんもやられて、家康を殺そうと思った奴の刀も村正です。いや、村正は徳川家にたたっているのです。従って徳川幕府は「村正を所持するな」と命令を出したのです。忌み嫌われていた刀が妖刀「村正」です。怪しげな刀です。

幕末になってくると「幕府を倒す!」ということですから、「幕府を倒す!」という連中が求めた刀が村正です。「この村正を持っていれば江戸幕府を倒して、天下を取ることができる!」と言われたのです。

しかし、村正は高価な刀です。貧乏浪人の手に入るような刀ではありません。偽物でもなんでもいいから、「村正」という銘があれば喜んで、倒幕の連中は手に入れたのです。西郷さんもそうです。調べた人はいませんが、後でわかったことは、西郷さんは村正を所持していたのです。僕は「なるほどな」と思いました。

村正という刀は今買うとやはり数千万円くらいするのでしょう。まず、手には入りません。これが西郷さんと妖刀「村正」の関係でした。西郷さんが村正を所持していたということは面白い話です。



■妖刀「村正」

「村正」とは、室町時代から江戸初期にかけて伊勢国(三重県)桑名に存在した刀工集団の名称で、そこで製作された日本刀が「村正」と呼ばれ、実用性と切れ味に定評があったそうです。



伝説1【切れ味】

村正作の一振と正宗作の一振を川に突き立ててみたところ、上流から流れてきた葉っぱが、まるで吸い込まれるかの如く村正に近づき、刃に触れた瞬間真っ二つに切れた。一方正宗には、どんなに葉っぱが流れてきても決して近寄ることはなかったという。刀匠の年代が全く違うものの、この二振の違いを表す有名な逸話である。



伝説2【徳川縁者を斬りまくる】

徳川家康の祖父・松平清康が殺害されたときの刀が村正
父・広忠が岩松八弥に襲われたときの刀も村正
嫡男・信康が死罪になり介錯に使われた刀も村正
妻・築山御前を小藪村で野中重政が殺害して斬った刀も村正
関ヶ原の戦いの際、家康が怪我をした槍も村正
大阪の陣において真田幸村が徳川本陣を急襲した際、家康に投げつけた短刀も村正


 

 

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