寺子屋についてちょっと調べてみたよ | 青森県八戸市個別指導進学塾/勉強ナビ塾長のGO FOR DREAM

寺子屋についてちょっと調べてみたよ

○概要

19世紀初め、江戸時代後半の頃、文化は上方中心の元禄文化から庶民中心の化政文化へ移行した。京都や大阪などでは学者が私塾を開き、武士・町人・百姓が通い、諸藩では藩校が設立され武士が学問や武道を学んだ。そうした中、庶民の間にも教育への関心が高まり、町や農村に開かれたのが寺子屋である。寺子屋では、読み・書き・そろばんなどの実用的な知識や技能が教えられた。現在の宮城、東京、埼玉、長野、岐阜、島根、山口、熊本あたりには500以上の寺子屋があったとされる。             (歴史教科書より)

 

 

○起源と発展

寺子屋が大きく広まったのは化政文化の頃だが、鎌倉時代に寺院で僧侶が檀家の子弟の為の教育を行ったことが始まりとされている。最初の頃の学習内容は手紙の書き方や帳面の付け方などであり、そしてその為に必要な文字の読み書きの学習が中心であった。また初めの頃は、「寺子屋」は主に商人や職人の子供を対象としたものだった。その後、室町・安土桃山にかけて徐々に発達を見せ、戦国乱世が終り太平の世を迎えた江戸時代では、商工業の発展や文書主義などにより、それらに対応した実務教育の需要が高まり、僧侶・村役人・裕福な町人などに加えて武士階級の者による経営・教授が進み、読み・書き・算盤などの日常生活に役立つ教科を教え、更に道徳の初等教育を施したとされる。

 

 (参照:https://kijidasu.com/?p=41256)

 

                      

○目的

庶民にとっての「寺子屋」の成立背景の大多数は経済的な要請から生まれたものであるとされる。それは、当時の親が我が子に家業などを継がせたり、独立して一人前の生計を立てさせたりする為には、その職業に必要な訓練・学習を施さなければならなかったが、庶民の多くの親は自らの家業に携わることで手一杯であり、自身の子に対する教育に充分な時間や費用を割く余裕は無かった。そこでその様な基礎的な職業訓練を、専門的に担当する教師に安価で委託するという仕組みが望まれたのである。

 

(参照:https://kijidasu.com/?p=41256)

 

 

 

○場所・内容

教場は特に改まった校舎・施設などは用いられずに、主に寺社や師匠の自邸・自宅が使用されたが、それなりの環境・設備を有する裕福な寺子屋もあれば、逆に浪人師匠の場合などは長屋の一室が教室に使われることもあった。

寺子屋の具体的な授業の進め方は、各々の生徒の学習目標がバラバラであり学ぶ内容も異なっている為に、その寺子屋全体で生徒が何人いようが師匠は各生徒に対して個別指導で接し、ひとりひとりが独自のプログラムに沿った形で学んでいだ。同じ時間帯に教場に集まっていても、生徒たちはそれぞれ自分の目的に合わせた教材を使用して、各自の目標に向けて勉学したのである。例えば「手習い」の具体的な進め方でいうと、各人がその修得レベルに合わせて個別に指導を受けており、師匠は頃合を見て特定の生徒を呼び出し、その生徒は師匠の机の前に進み出て清書を行い、その場で指導(朱筆、運筆の順序、言葉の意味や内容を教えた)を受けて、その後、再び自分の机に向かい自習するといった形式であった。しかも師匠は自身の教職経験に基づき、個々の生徒の年齢や学習の進度、その性格、家業などに応じて手本の内容を変えるなど肌理細かな配慮を行いながら指導したという。また、個別指導の対極にあたる一斉指導は非常に少なく、多くの場合は掛け算「九九」の唱和などの音読による発声練習・記憶法等の場合だけで、通常は素読(読み方)練習も個人教授で施された。但し、その日の日課の最後には、多くの「寺子屋」では師匠の発声のもと一斉音読(斉読)が行われていたとの話もある。

(参照:https://kijidasu.com/?p=41256)

 

 

○寺子屋修了後の進路

12歳~15歳頃までに寺子屋での学習を終えた庶民の子供らの多くは、親元を離れて住み込みで仕事の見習いに出ることになる。そして商家なら丁稚奉公、職人なら年季奉公という形をとり、また女子の場合は教育の仕上げと躾を兼ねて、武家屋敷か大店の商店に女中奉公に出向くことが多かった。その中には、まれに学業を究める目的で就学を続ける者もいた。

 

(参照:https://kijidasu.com/?p=41256)