私のルーツ | 美容皮膚科女医 中野あおいオフィシャルブログ 「綺麗が止まらない」Powered by Ameba

私のルーツ



私の母方のご先祖様


曽祖父の西原又太郎



photo:01




信州 須坂藩の藩士 西原友平の長男として


幕末に生まれました


明治維新後の明治4年に


友平は妻、子供を須坂に残し


又太郎一人を連れて


横浜に移り住みます



須坂藩は蚕の生産が地場産業で絹を海外にも輸出しており


友平もよく横浜に出張に行っていたと


須坂藩の記録に残っているそうで


そういう縁もあって横浜に行ったのだと思います


(後に残してきた妻子も呼び寄せます)



そこで友平は様々な異文化に触れ


これからの時代は海の向こうだと確信し


まだ幼かった又太郎に


英語教育を受けさせました



その後


又太郎は東京商船大学で学び


外国客船の船長になりました



その当時は


海外へ自由に行ける唯一の手段であり


それゆえに外交官的な任務もあったようで


東京帝国大学よりも人気があり


東京商船大学にはエリート達が集まったといいます




又太郎は文明開化の明治、大正の時代に


いろいろな国に行き


何を見てどんなことを感じ考えたのでしょうか


すべて英語で書かれた日記があるそうなのですが


いつか本家の伯父に見せてもらおうと思います




又太郎の妻 まん


私の曾祖母です



photo:02


九州大分 中津藩の武家 神谷家の娘です


この写真の裏には又太郎の字で


3rd Ocober 1895


と書かれてあるので明治28年ですね


私の祖父が明治30年生まれなので


写っている男の子は祖父の二人の兄でしょうか


青山学院大学を出て銀行マンとして活躍していた時


若くして二人とも相次いで結核で亡くなったそうです


これからだという時に・・


家族の悲しみは幾何のものだったでしょう


photo:03




毎年のように家族写真を撮っていたのでしょうね



photo:04




下の写真は


まんがまだ結婚する前に


神谷家の姉妹と撮った写真ではないかと言われてます


image



どの写真も


凛としていて意思の強い眼差しをしているまん


武士の娘としての誇りを失わずいつもきちんとしていて


真夏でも白足袋をはき正座をして


足を崩しているのを見たことがないと


母から聞いています




神谷家の分家を大叔父の始郎が継ぎましたが


子供がいなかったので断絶しました


本家はまだ残っているそうです



始郎はとてもハンサムで


芸名を西原孝という俳優になり


その後、映画監督・プロデューサーとして


旗本退屈男のシリーズを何本も撮っています


巨人軍の名監督 川上哲治監督の伝記映画も


西原孝 主演 監督 プロデュースで作ってます


日本で初めてのアニメ映画を作ろうと企画していた時に


結核で亡くなりました


その孝が母にいつも


これからは女性も働く時代になるよ


男と同じ対等に働く時代に


だからのりちゃんも(母の名前)何か手に職を付けて働くといいよ


と言われていたそうで


本人はただの専業主婦でしたが


娘にはそのようにさせたかったらしく


私が高校生の時に進路を決めるとき


よくこのお話を聞かされました


だから私が医者になれたのも


孝伯父のおかげでもあります




本家の伯父から母へこれらの写真を譲られ


また母方の親戚会があっていろいろなお話を聞いたり


今年のお盆は東京にいたためか


東京の母方のご先祖様のことを考えていました




高祖父の友平や大叔父の孝は


時代の先を見る目があり尊敬してしまいます


私もいつも先を見て


仕事に励みたいと思います



そして曾祖母のまんのように


いつも凛としてまっすぐに生きていきたいです



いつもご先祖様に感謝を忘れずに